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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『世界一であってこそ、日本一』。
4億5000万円の輸入工作機械購入を決断 / 1952

『世界一であってこそ、日本一』。 4億5000万円の輸入工作機械購入を決断 / 1952

時を同じくして、河島はヨーロッパへ旅立つ。工作機械の購入と、Hondaがその機械を何にどう使うのかを説明し、仕様を打ち合わせるためだった。2カ月をかけてドイツ、スイスを回った。

「『河島、行ってこい』と言われて出かけたんですが、どのメーカーを訪れても、必ず相手がビックリした顔をする。高価な買い物をするんだから、年配の偉そうなのが来ると思っている。そこへ20代の若者が、たった1人で現れたんですからね。しかもドイツ語は片言、英語はまるっきり駄目。もともと相手は日本のHondaなんてろくに知らない。無名もいいところです。中間に商社が入ってますからお金を取り損なう心配はないけれど、こんな若者に任せちゃって、一体どういう会社なんだ?と思ったでしょうね」。

河島は、初めての慣れない外国暮らしで、へとへとになりながら無事大任を果たした。

「僕ら設計屋は、いい工作機械を見るとうれしくなります。設計のしがいがありますもの。おやじさんも興奮したでしょうね。おもちゃ屋へ連れて行かれて、好きなものを買っていいよって言われた男の子みたいだったんじゃないか。それで、思いきり買いまくった(笑い)。例えばスイスのマーグ社、アメリカのリースブラドナー社のギアカッターなんか、日本の自動車メーカーで持ってるのはHondaぐらいなもの。大自動車メーカーさんも羨望の機械。それを使って、ちっぽけなオートバイつくってる(笑い)。けれどこの時の分不相応の大決断のおかげで、いいものができるようになって、やがて自動車づくりにも移れるようになるんです」(河島)。

最初、3億円程度とされていた輸入工作機械は、最終的には4億5000万円に達した。

生産部門も、既に量産体勢の工場建設に踏み切っていた。3月に埼玉県の大和町白子にあった古い工場を買い取り、補修している間にも浜松の山下工場から工作機械を運び込むという離れ業を演じて、わずか2カ月後の5月には、早くもこの新工場を稼働させる。輸入工作機械はまだ届かなかったが、できるだけ高精度の中古機械を探し出して設置した。製造能力はたちまち向上していった。

従業員数も、このころから急激に増えていく。創業の年にはわずか34人だった。1952年2月の時点ではまだ214人だった。それが、1年後の2月には一挙に6倍の1337人になるのである。
生産台数や売上高は、日本一の2輪車メーカーといえるまでに急成長を遂げていた。

この年結成された労働組合の要望に応じ、白い作業衣が採用されたのも、白子工場が稼働直後の1952年5月である。

「作業衣を白にする。これは社長の発案です。『環境がよくなけりゃ、働く意欲も落ちる。汚い工場からいい製品は生まれない。だから、作業衣は白がいいんだ。白は汚れが目立つ。それができるだけ汚れないように、きれいな工場にしなきゃいけないんだ』とおっしゃって、工場の内部も工作機械も、グリーンのツートーンに塗り替えてしまった。トイレも水洗で白のタイル張り。雰囲気が変わると、われわれの気分も変わります。機械の手入れを自然とやるようになった。油汚れなんかが気になるようになった。当時はどこの工場でも作業衣は私服です。そんなころ作業衣を貸与した。しかも社長も従業員も同じものを着る。環境整備も作業衣も、現場で働いてる人の気持ちでものを考えられる人の発想です。まだまだハードな仕事をする部門も、たくさんありました。でも、そのつらさを分かってくれる人がトップにいるというのは、心強いものですよ」(磯部)。

設計開発部門でも、積極的に新製品の企画が進んでいた。1952年の春ごろから、Honda初の製品が二つ、開発のスタートを切っている。

一つは汎用エンジンである。カブF型のエンジンを活用したH型汎用エンジンは、農機具メーカーの共立農機から要請を受けての開発だった。背負い型農薬噴霧器の動力として使われるOEM的製品として、9月に生産を開始している。これが、Hondaの汎用機への進出のきっかけとなった。設計思想には、エンジン操作に経験のない人にも扱いやすい配慮が早くもされていた。ただし、この業務提携は短期間で終わり、H型の生産も終了する。これは藤澤の決断だった。

「お取引先としては一流の会社ですし、利益率も高くて、いいビジネスだったんですよ。なのにある時、藤澤さんが『この契約をやめようと思う』と言い出した。理由は販売網の場合と同じです。
『お客さんに直接つながる、自前の商品をつくって売るのがHondaなんだ。先様のペースで、生産をコントロールされるような商売は、やっぱりいけないんだよ』と。目先ではなく、はるか先を見通して、決して信念を曲げないこのケジメ。これまた、いい勉強でしたね」
と、川島は語る。

汎用機の開発はいったん途切れるが、2年後、Hondaのブランドで復活するのである。