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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『世界一であってこそ、日本一』。
4億5000万円の輸入工作機械購入を決断 / 1952

『世界一であってこそ、日本一』。 4億5000万円の輸入工作機械購入を決断 / 1952

ドリームE型は、国産モーターサイクルの中でトップセラーの1台であった。だが、どうひいき目に見ようと、世界に通用するモーターサイクルではなかった。本田の言葉通り、先進国の製品と並べば"まことに恥ずかしい"レベルだったのだ。

このころ、欧米のモーターサイクルの輸入も、少量ながら再開されていた。彼我の差は日本の路上で明らかだった。Hondaを含めた日本車のライダーたちは、外国車に出会うと、文字通り後塵を拝していた。ドリームE型のやり遂げた箱根を一気越えする性能は、イギリス車やドイツ車にとっては、しごく当たり前のことでしかなかったのだ。

当時、設計課長だった河島喜好は、輸入工作機械購入決定のいきさつを、こう語る。
「2年前に朝鮮戦争が始まりましたね。敗戦の痛手から全く立ち直れずにいた日本が、特需景気になった。アメリカ軍から、ありとあらゆるものの発注がきたのです。工業界にも、上はトラックから下は鉄条網・ドラム缶に至るまで大量に。もちろん、クルマの部品なども含まれていました。そういうものを生産できる会社は、見る間に業績が良くなっていった。ところが、Hondaはこの特需に関係がないんですよ。ほんの一時期に、A型エンジンを納めたことがあったけど。部品であれ何であれ、製造する機械を持っていないんですからね。
はっきり言っておきますが、Hondaの工場はいわゆる生産工場ではなくて、組立工場だったのです。部品メーカーからほとんどの部品を買ってきて、それを組み立ててオートバイをつくっていたんです。ギヤ1個さえ社内ではつくれない。あるのは組立ラインと塗装ラインだけ。溶接すら外注でした」。

かろうじて内作していたのは、カムシャフト、クランクシャフト、シリンダーなどのエンジン部品で、それは全部品の20%にも満たなかった。

「ここで、本田と藤澤の経営者としての先見の明が、決断を下したのです。デフレ不況が去って、E型が売れて、一時期の危機こそ乗り越えたが、このままでは大きな成長は望めない。しかも戦前の古い工作機械でつくった部品を買って使っているようでは、世界のHondaになれるわけがない。お二人は、Hondaを生産工場を持った会社にする決意をした。何が何でも最新鋭の工作機械を買おうと。それで、4億5000万円分の外貨申請を出したのです」(河島)。

時は、特需による繊維業界の糸へん景気、工業界の金へん景気の最中だった。国の外貨保有高も急激に上がっていた。絶妙のタイミングでの許可申請だった。通産省、大蔵省の許可も比較的容易に下りた。もし、この決断が1年遅れていたら、この計画は挫折したであろう。

11月、本田は、アメリカ工業界の視察と工作機械購入のため、初めて渡米する。伝え聞くだけだったアメリカ自動車メーカーの大量生産工場の現場も見た。ラインシステムから作業環境まで注意深く観察した。工作機械メーカーでは、通訳を介して熱心に質問した。本田家には、今も、その時集めてきた工作機械のカタログが大量に残されている。

「おれが機械を買うというと、相手が喜んじゃって、『セキハン、セキハン』って言うんだ。お祝いの赤飯かと思ったらシェイク・ハンド(握手)なんだとさ」
というのが土産話だった。

本田の帰国を待って、第3次増資が行われ、資本金は1500万円となった。