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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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最初の『走る実験室』は浅間火山レースを走った / 1955

最初の『走る実験室』は浅間火山レースを走った / 1955

1954年6月9日、本田はヨーロッパへ旅立つ。最大の目的は、マン島TTレースを自分の目で確かめることだった。6月13日、遠い憧れであったモーターサイクルレースのメッカに着く。早速、レースコースの見学が始まった。ここはレース専用のサーキットではなく、一般道路をレース中だけ閉鎖して使う文字通りのロードコースである。1周60.725kmのマウンテンコースと1周17.36kmのクリプスコースがあり、いずれも、聞きしに勝る難コースだった。初めて目の前で見る各国のGPマシン群も、本田を圧倒した。お得意のしゃがみこみスタイルで隅々まで子細に観察した。

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1955年から、浅間高原を舞台に日本の2輪レース史に残る有名なレースが始まる。正式名称は全日本オートバイ耐久ロードレース。隔年で開催され、1955年の第1回は浅間高原レース、1957年と1959年の第2回・第3回は浅間火山レースと呼ばれている。Hondaはこのレースで苦杯を喫し続けるが、最後の第3回で圧倒的な勝利を収める。
浅間山をバックにした本田宗一郎(左から4人目)とHondaのライダーたち

レースが始まった時のショックは、さらに大きかった。後年、モータージャーナリストの小林彰太郎氏に、
「技術者として1番うれしかったことは?」
と質問され、本田はこう答えている。

「1番がっかりしたことから言いますとね、初めて1954年にマン島TTレースを見に行った時のことです。驚いたことに僕ら考える3倍ぐらいの大きな力で走ってるわけですね。イタリアからドイツからイギリスから全部マン島に集結して、矢のように走ってる姿。しかもわれわれが見たこともないどころか、夢にも考えたことのないようなマシンなんですねえ。行ってあれ見たときに、まず第1にガクーンと衝撃だったなあ。日本でHondaがTTレースに出るって散々話を広げておいて行ったんだから、僕にとっては物凄い衝撃だった。これはえらいこと言っちゃった、どうしようかなあって。(中略)ところが、気をとり直して見ましたらね、一晩寝て、またあくる朝レース場へ行ってみたわけですよ。そしたら、こちらの連中は歴史があってこれだけのものをつくったんだ。こっちは歴史はないけど、これを見たという現実は歴史と同じ効果があるなと。(後略)」(二玄社刊・HONDA F1 1964〜1968より抜粋)

宣言文には、250ccのレーサーを出場させ、そのエンジンはリッター当たり100馬力を出すと書いた。すなわち、25馬力。これが完成すれば世界最高峰の技術水準と見てさしつかえないと。しかし、来年TTに挑戦すると称する日本人を取材に来た新聞記者から聞き出したこの年の250ccクラス優勝車、ドイツのNSUレンマックスのパワーは、リッター当たり150馬力に近いだろうという。本田の世界レベルの予想は、大きく外れた。

本田が藤澤に出した短い手紙が残っている。
「6月14日、初めてレースを見たが、すごいものだ。いろいろと大いに勉強したが、また、自信もついてうれしく思う。会社のほうは苦労が多いと思うが、頑張ってください」。

とにかく度肝を抜かれながらも、いつもの負けん気を取り戻して、イギリス、ドイツ、イタリアと、モーターサイクルメーカー、自動車メーカー、部品メーカー、工作機械メーカーなどを精力的に見学した。日本で手に入らないレース用部品も買い集めた。イギリスではエイボンのレーシングタイヤとリム、レーノルズのチェーン、KLGのプラグ、イタリアではボラーニのホイール、デロルトのキャブレター。持てる限りの部品を抱えて、帰国した。
ひそかに心配していた資金繰りの大問題は、羽田に出迎えた藤澤の笑顔を見た途端に、切り抜けられたことが分かった。だが、経営状態は相変わらず綱渡りの危うさだった。
それでも10月には、TTレース推進本部をつくり、河島にレーシングエンジンの開発を命じる。

「本当に出るんですか、と聞くと、『何が何でも出る。もたもたしてると、どんどん置いていかれる』と。『それにな、今みんなが苦労してる時だろ。こんな時こそ夢が欲しいじゃないか。明日咲かせる花は、今、種を蒔いておかなきゃいけないんだ』。おやじさんにこう言われましたよ。手探りで、とにかくレーシングエンジンの設計は始めました」(河島)。

その一方では、いささか旧態化してきたロングセラーのドリームEシリーズが、市場で競争力を失わない間に、後継車の開発を進めなければならなかった。
12月には2年ぶりの汎用製品、4ストロークのT型汎用エンジンが登場した。今に続くHonda 4ストローク汎用エンジンの出発点となった製品である。
しかし、『マン島TTに来年出場』の公約は守れそうもなかった。