MENU

HONDA

検索

語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

  1. 語り継ぎたいことトップ>
  2. 限りない夢、あふれる情熱>
  3. 『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

世界一への挑戦状。
『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

世界一への挑戦状。 『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

1954年1月13日、東京の羽田空港から、3人の日本人がブラジルへ旅立った。

Photo

マン島TTレースに先駆ける最初の海外レース挑戦が、サンパウロ市の400年祭記念の国際オートレースだった。1954年2月13日、大村美樹雄(No.136)の奮闘で13位完走を果たす。ただし、ヨーロッパからの参加車と、ドリームE型改造レーサーとの性能差は、あまりにも歴然としていた

サンパウロ市の400年祭記念の国際オートレースに参加するHondaのライダー・大村美樹雄とエンジニアの馬場利次、それにメグロのライダー・田代勝弘である。これは、戦前戦後を通じて、日本のモーターサイクルと日本人選手の初めての海外遠征であった。ライダーの大村は、1949年に16歳でHondaに入社し、野口工場で組立とテストライダーをやっていた。彼はその年の9月に浜松の野口公園で開かれた小さなレースに、社用車のC型を"無断借用"して出場。優勝してしまったのを、見物に来ていた本田宗一郎に見つかり、怒られるどころか褒められたという逸話の持ち主である。

Hondaは、戦後復活し始めたレースに積極的に参戦していた。本田自身も本田技術研究所時代にはあちこちの草レースに、A型で出場していたのだ。走るのをやめたのは本田技研工業の社長になってからで、そのかわり、若手の従業員たちを参加させている。

「僕がライダーで、大村がメカニックだったことがあるんだよ」
と語っているほど河島もレース好きで、名古屋や静岡まで出掛けて行って走ったという。

「サンパウロという地球の向こう側のレースに出ることになったいきさつは、全国小型自動車連合会会長の栗山長次郎さんが、1953年の10月、たまたま通産省へ行った時に、車両課でサンパウロのモーターサイクル協会から招待状がきてるのを見つけたからです。サンパウロ市の400年祭記念レースに日本も参加しないか、費用はこちらで持つ、という。ところが課長の未決箱に入ったままになっていたので、エントリーの締め切りが迫っていた。栗山さんが急いで各メーカーに話をして、5社が参加を希望したんですが、向こうへ問い合わせると締め切り後だから予定のライダー10人・メカニック2人は招待できない。1人分の費用なら出す、という返事。結局、Hondaとメグロの2社が、足りない分を出し合って、遠征が決まりました。飛行機代は当時のお金で1人分80万円。えらいことですよ。僕はそのころHondaの従業員であり、公営オートレースのプロ選手だったんです。オートレース用に、Honda・スペシャルをつくってもらって走ってました。おやじさんは、場慣れしてるからって僕を選んでくれたんでしょう。当時21歳。メカニックの馬場さんも大学を出て2年目の23歳。こんな若者を平気でブラジルまで行かせちゃうんだから、ほんと度胸のいい会社ですよね」
と、大村はいまだに感心する。

さあクルマの準備だとなったが、情報が少ない。分かっているのは125ccクラスは1周8kmのコースを8周するということだけだった。ドリームE型の150ccを、ストロークを縮めて125ccにし、ミッションは3速がまだできたばかりなので、信頼性から従来の2速のまま。フレームはパイプで特製した。出来上がったマシンはロードレーサーというより、ダートトラックレーサー風だった。

「明日出発します、と、おやじさんのお宅にあいさつに行ったら、『勝つことは考えるな。何としても完走してくれ。それだけは頼むぞ』と言われた。勝つのは無理だと思ってたけど、完走だって結構、難しそうだった(笑い)」(大村)。

マシンを船便で送る時間はなかった。航空貨物は費用が高すぎる。結局、2台をバラバラにして3人が手荷物で運ぶ強引な策を採った。プロペラ機の時代である。延々6日目にサンパウロにたどり着くと、大歓迎が待っていた。

「日系紙のインタビューを受けたり、日系人のパーティーに招待されたりしましたが、ありがたかったのは、日系人の方から練習用に250ccのAJS(英国車)を貸してもらえたことですよ。自分のレーサーは練習には使わない。ここで壊したら一巻の終わりだから。時々ドリームでも走った。フレーム剛性は足りないし、これは無理しちゃいかんぞ、完走、完走。夜はレース場の地図を見て、イメージトレーニングをした。おやじさんを思い出しながらね。サーキットは、今でもF1GPで有名なインテルラゴスでした。ヨーロッパから来てる連中を見たら、僕らとの差はもう圧倒的でね。マシンもライダーも超一流がいっぱい。わーっ、あんなのとヨーイドンじゃ、かなわない。走る前から結果は一目瞭然だった。ただ、スタートは押し掛けです。僕は足が速い。せめてここでいいとこを見せてやるぞって頑張った。足で走ってる間はいちばん速かった(笑い)。だから最初は前のほうにいましたよ(笑い)。直線では全然歯が立たないけど、小さいカーブは僕の得意。オートレース流の走りでここも最速(笑い)」(大村)。

トップ争いはイタリア勢同士で、モンディアルに乗るパガーニが勝った。大村は1周半遅れ、25台中の13位で完走した。平均時速は約115kmだった。

「モンディアルは130kmを越えてました。パワーも、ウチのが6馬力、向こうは軽く2倍以上でしょう。とにかくあの酷暑の中で約束通り完走できてよかった。これで安心して、おやじさんと顔が合わせられる。喜んでくれると思いました」(大村)。

だが、それからが大変だった。250ccクラスに出場するメグロの田代選手が練習中に転倒、左手に大怪我を負って、本番レースは走れなくなったのだ。1人分7万5000円のスターティングマネーももらえなくなってしまった。

「外貨持ち出しが厳しい時代だから、お金は少ししか持っていない。当てが外れて大困り。本当に日系人の皆さんにお世話になりました。義援金パーティーを開いてくれて、食事にも呼んでくれて。完走報告の電話のついでに金送れも言って、4万円届いたけどとても足りない。やむなくマシンを現地で売って、滞在費の足しにしたんですよ」(大村)。

帰路はアメリカ回りの乗り継ぎだったが、5日間かかった。

「八重洲の本社へ直行しました。昔からHondaには社長室がない。社長が入口の奥の長椅子で新聞を読んでたから、『社長、ただ今戻りました』と言うと『おっ、帰って来たか、ご苦労』って、目も上げずにそれで終わり。ガッカリして浜松に帰ったら、『大村がブラジルの国際レースで完走したぞ!』と、社長があっちこっちに言って歩いてたというんです。本人の前では、照れてほめないんですよ」(大村)。