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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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世界一への挑戦状。
『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

世界一への挑戦状。 『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

1954年1月、HondaはジュノオK型をデビューさせた。数々の新機構を最大限に盛り込んだ最新鋭のスクーターである。当時スクーターは、富士重工業のラビット、新三菱重工業のシルバーピジョンを双璧に、モーターサイクルとも自転車用補助エンジンとも異なる大きな市場を確立していた。

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PR誌・Hondaの友(1955年1月号)に日本バイク工業株式会社が出したジュノオK型の広告。ジュノオK型は、先進過ぎた故の失敗作だったが、ここから始まった新素材・プラスチックの研究は、後年、スーパーカブで大きく開花する

そこへ、Hondaが満を持して送り込んだのがジュノオK型だった。先行のライバルに対抗する、それまでにない新しさを満載していた。2輪車で世界初のセルスターター、全天候型の大型風防、これも初めての方向指示フラッシャーランプまで付いているという、自動車のスクーター版ともいうべき製品だった。中でも際立って独創的だったのは、FRPのボディーパネルである。ポリエステルとグラスファイバーによる強化プラスチックのFRPは、当時最先端の素材である。1953年型シボレー・コーヴェットがボディーに初採用した程度で(生産台数は約300台といわれる)、アメリカでさえ大量生産技術はまだ開発途上だった。

このFRPボディーパネルを担当した中の1人に、当時、入社1年目の土田昭三(現、ティエステック副社長)がいた。大学で化学を専攻した土田に、突然、白羽の矢が立ったのだ。

「もちろん、こんな新素材を使おうと決めたのは、本田さんですよ。早くからプラスチックに着目していた。当然、日本では初めてだし原料もアメリカからの輸入。生産技術も、半ば自分たちで開発したようなものです。
苦労の連続でした。型から抜くと表面はピンホールだらけ。凸凹もある。それを磨くと、ガラス繊維が飛び散って体にチクチク刺さる。塗装も、鉄板用のものは全然通用しません。『見たり聞いたり試したりの中で、試したりがいちばん大事なんだ』と本田さんはおっしゃってたけれど、汗を流しながら改善していくあの人の実践哲学を、もろに体験させられました」(土田)。

だが前年7月、朝鮮戦争は休戦協定が結ばれ、一時期の特需ブームは終わっていた。糸へん景気、金へん景気といわれた好景気が秋から徐々に悪化し、1954年は一挙に大不況の年となっていた。

しかし、Hondaは1月に株式を公開し、東京証券取引市場で店頭売買が開始され、世の不景気をよそに、躍進は今年も続くであろうと思われていた。1953年2月〜1954年2月期の決算では、前年度の約3倍もの総売上高を記録していた。