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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『マン島TTレース初出場』。
若者たちは、力いっぱい世界にチャレンジした / 1958

『マン島TTレース初出場』。 若者たちは、力いっぱい世界にチャレンジした / 1958
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初挑戦のマン島では、監督もライダーもマネジャーも、全員がマシン整備で働いた。左からライダーの鈴木淳三、鈴木義一、河島喜好監督、飯田佳孝マネジャー、廣田俊二メカニック、ライダーの田中ヘ助、関口久一整備監督、ライダーの谷口尚巳

「あの宣言が出て、だれがこの大仕事やるのかなあと思ってたら、こっちにきました。すぐエンジン試作が始まって、年末にはプロトタイプもできたりしたけれど、おやじがうるさい、周囲もうるさい、ごちゃごちゃ口出しされて、もう、やってられない。専門の部署をつくってくれ、でなきゃやりません、と言ったら、『つくれ!』の一言。第2研究課というのをつくって、エンジン設計屋、車体設計屋、組立屋、選手、マネジャーを、全部課員にしてね。上はおやじさんしかいない直属部隊。第2回の浅間の後だったな。エンジンが久米是志や新村公男、車体がサンパウロで食うや食わずの貧乏をした馬場利次、ライダーは、浅間の時に社内につくったHondaスピードクラブの面々でしたね。あのころは『やりたいやつ手を上げろ!』『はい!』で決まっちゃう時代で、辞令なんてあったかどうか忘れちゃった(笑い)。ですから、エンジン屋から何から、どっか1本線の切れてるような常識外れのやつばっかり(笑い)。マトモな技術者ならマン島TT挑戦なんて無鉄砲なこと考えませんよ。うちは、トップのおやじさんからして、マトモじゃないから(笑い)」。

河島は、マン島TT出場という大プロジェクトを任されたのだ。

「40代、30代の技術屋さんが、そのころ、いっぱいいたんだが、あえて若者にやらせてくれた。その時、僕も30歳になっていなかったな。みんな20代。責任は重いけれど、若いから怖いもの知らずだった」(河島)。

1958年9月、試行錯誤を繰り返している時、イタリアの市販レーシングマシン、125ccのモンディアルが手に入った。

「56年型だったけど、初めて向こうのレーサーの実物を見たわけ。これは勉強になった。あのおかげで最初のマン島TTマシンができたといえます。モンディアルは単気筒だが、うちは2気筒にした。1959年の1月に、RC141というマシンができた。でも、まだ3年前のモンディアルの16.5馬力に追い付けない15.3馬力。その後すぐ4バルブのRC142が、17.4馬力になって、両方をマン島に送り出したんです」(河島)。

1959年5月5日、大倉商事嘱託のパスポートを持ったHondaチームの面々が、マン島に着いた。監督の河島、ライダーの鈴木義一、谷口尚巳、鈴木淳三、田中ヘ助、メカニックの関口久一、廣田俊二、マネジャーの飯田佳孝、通訳兼ライダーのアメリカ人、ビル・ハントの9人である。だが、なぜ大倉商事嘱託だったのか。

「輸出もしていない会社の連中が、オートバイ競走に出掛けます、って言ったって、出国ビザも外貨も出ないと思ったから、機械の輸入でお世話になってる大倉商事さんの名義を借りたんですね。でも、お役人が片目つぶって、OKしてくれた。うちの人間が海外へ行く時は、かならず一もめありましたから、ホッとしましたよ。だけどサンパウロほどじゃないが、お金は節約です。ナースリーホテルという安い宿に泊まって、床屋も自分たちでやって、でも食事だけはちゃんと取った。腹が減っては戦はできない。『日本代表で行くんだ、恥かくな』って、出掛ける前に、おやじさんの命令で食事のマナーを勉強させられましてね。だから、マナー正しく、まずい飯を食いました(笑い)。肉はマトン。何の肉ってウエイトレスに手振りで聞くと『メエェー』ばっかり」

と、チームの財布を預かった飯田は言う。個人持ち出しのドルを集めて、それがチームの運営費だった。マシンと一緒に船で運んだ米や味噌は、カビだらけで食べられなかったのである。マン島での初仕事は、マシンのサビ落としだった。

この年のマン島TTは、長いマウンテンコースではなく、短いクリプスコースで行われた。125ccクラスのレースは1周17.36kmを10周する。
ともあれ、トレーニングが始まった。練習車は、2月に発売したばかりのベンリイCB92である。