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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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まず、本田宗一郎。
初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

まず、本田宗一郎。 初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

同じ1936年、修理業に飽き足らなくなった本田は、製造業への転進を計画した。アート商会浜松支店は、そのころ会社組織になっていた。ピストンリング製造を始めたいという本田の希望に、出資者たちは反対した。修理で儲かっているのだから、余計な事業を始める必要はないというのだ。しかし、本田はあきらめなかった。知人の加藤七郎氏らの後援を受け、加藤氏を社長として東海精機重工業株式会社を設立する。一方ではアートピストンリング研究所の看板を掛けて、昼はアート商会で働き、夜はピストンリングの開発に、ひたすら打ち込んだ。

失敗を繰り返し悩んだあげく、冶金の知識を学ぶために浜松高等工業(現、静岡大学工学部)の聴講生になったのもこの時である。顔つきが変わってしまうほどの苦労と熱中の研究が、2年近くも続いた。ようやく試作に成功した本田は、1939年、アート商会浜松支店を弟子にあっさり譲り渡し、東海精機重工業株式会社に社長として入社する。

待望のピストンリングの生産開始だったが、困難はまだ続いた。今度は製造技術が問題だった。トヨタ自動車工業(以降、トヨタ)と契約できたものの、製品検査に出した50本の内、合格は、たった3本だった。さらに2年近くをかけ、各地の大学を尋ねたり、製鋼会社を訪れたりして、生産技術を習得し、ついにトヨタや中島飛行機を納入先にするまでの製品を量産できるようになった。従業員は、最盛期には2000人を数えた。

1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。
東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれるようになった。1942年にはトヨタが40%の資本参加をして、本田は社長から専務に"降格"される。男子工員は徴兵で次第にいなくなり、一般女性や女学生たちの女子挺身隊(ていしんたい)が工場で働くようになった。工作機械を自ら設計していた本田は、不慣れな彼女たちが、いかに安全・簡単に作業できるかに心を砕き、オートメーションのピストンリング製造機を、この時、考案している。
日本楽器(現、ヤマハ)社長の川上嘉市氏の依頼で、飛行機の木製プロペラ自動切削機も考案する。1週間1本の手づくりだったものが、30分で2本の能率に変わり、川上氏を感動させた。

戦火はますます激しくなり、日本の敗色は濃厚になっていた。
浜松は、たび重なる空爆で廃墟と化していった。東海精機重工業の山下工場も破壊された。さらに1945年1月13日、南海大地震が三河地方を襲い、磐田工場がこの時、倒壊した。

ついに8月15日、敗戦。日本は大きく変わった。
日本と同じように、本田宗一郎もこの時から大転換するのだ。