語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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まず、本田宗一郎。
初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

まず、本田宗一郎。 初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

1928年の4月、徒弟奉公を終えた本田は、アート商会浜松支店を開業した。榊原氏の弟子の中でただ1人、のれん分けを許された独立である。21歳だった。
それからの本田は、若さと才能を思いきり発揮する。修理の腕の良さで評判だっただけではない。後に"浜松のエジソン"と呼ばれる発明家ぶりを存分に見せて、修理工場の域を越えた仕事を次々に創り出していったのだ。

1935年ごろ、店頭で撮った記念写真がある。そこに写っている消防車は、強力な放水ポンプを付けたアート商会浜松支店特装車である。このほかダンプトラックもつくったし、乗客数を増やすバスの改造もやった。当時の写真(下写真参照)の右端に、当時は珍しいリフト式修理台が写っているが、これも本田の発明品の1つだった。
「クルマの下にもぐり込んで作業するなんて人間の仕事じゃない」
と言いつつ、自分でつくった。左端の低いクルマは、自製のレーシングカー・ハママツ号で、その右に立つサングラスにちょび髭の人物が、本田である。
開業時には1人だった従業員は、30人余りに増えていた。この年10月に結婚したばかりのさち夫人も、住み込みの従業員の食事づくりから経理までを手伝って、一緒に働いていた。

Photo

1935年ごろのアート商会浜松支店。左のクルマ『ハママツ号』の横にサングラスをかけた本田がいる。左から15人目は、弟の本田弁二郎。右端には当時としては珍しかったリフト式修理台が写っている。これも本田の発明品の1つである

1936年6月7日、本田は多摩川スピードウェイ(日本最初のレーシングコース)のオープニングレースに、ハママツ号で出場して、事故を起こす。突然、ピットから進路に割り込んできたクルマを避けきれず大転倒、車外に放り出される。ドライバーの本田は軽傷で済んだが、同乗メカニックの弟・弁二郎は、脊椎骨折の重傷を負ったのだ。それにもめげず10月に、もう1度だけ自動車レースに出場している。

本田自身は、
「女房が泣いて止めるんで、以後やめたんだよ」
と語っていたが、さち夫人によれば
「私が言ってやめるものですか。父親に説教されて観念したのよ」
が真相だとか。

時代も変わってきた。既に日本は軍国主義の暗い時代に入っていた。1937年に日中戦争が始まり、国家非常時の掛け声の下、レースなどもってのほかとなる。日本のモータースポーツはここでいったん消滅するのである。