語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

  1. 語り継ぎたいことトップ>
  2. 限りない夢、あふれる情熱>
  3. まず、本田宗一郎。初めから『つくる喜び』の人 / 1936

まず、本田宗一郎。
初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

まず、本田宗一郎。 初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

本田宗一郎は、1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現、天竜市)に父・本田儀平、母・みかの長男として生まれた。

儀平は腕の良い実直な鍛冶職人であった。みかも機織りの名手だった。貧しくはあったが、のびのびと育てられた。ただし、要所要所でのしつけは厳しかった。あれほど自由奔放な性格の本田が、一方では他人に迷惑をかけるのを何より嫌い、約束の時間をきちんと守った几帳面さは、父親の徹底した教えであったという。
生まれつきの手の器用さ、そして機械への好奇心の強さは、父親譲りだった。

Photo

本田はアート商会の徒弟時代、主人の榊原兄弟を手伝ってレーサーのカーチス号をつくり、レースにはライディングメカニックとして同乗し、1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会で優勝した。中央が本田宗一郎。左はアート商会経営者・榊原郁三氏、右はドライバーの榊原真一氏

儀平は、やがて自転車販売店を開業する。ようやく普及し始めた自転車の修理を頼まれたのが、きっかけだった。鍛冶屋のかたわら、中古自転車を持ち前の腕と研究熱心で、きちんと修理し、安く販売することから始め、近辺で評判の自転車店になっていったのである。

高等小学校の卒業が間近いころ、本田は自転車業界誌『輪業の世界』で、東京のアート商会の広告を見た。そこには自転車ではなく、"自動車・オートバイ・ガソリン機関の製作修理"とあった。幼いころ、村に初めて現れた自動車に大感激し、
「その時かいだオイルのにおいを今も忘れない」
と繰り返し語った本田が、ここで働きたい、と思ったろうことは想像に難くない。

アート商会は、自動車専門誌や自転車専門誌に広告を出すほど、東京では一流の自動車修理工場だった。徒弟の希望者はいくらでもいたはずである。本田が見たのも、求人広告ではなかった。自分で懸命に書いたという奉公依頼の手紙が、どんな文章だったか、今は知るよしもない。だが、幸運なことに、承諾の返事が届いたのである。

小学校を卒業した1922年4月、15歳の本田は、東京・本郷湯島のアート商会の丁稚(でっち)小僧になった。
これは、現代の感覚での就職とは隔絶した世界である。小僧時代は、食事と寝床、わずかな小遣いだけで、給料は出ないのだ。

アート商会での数々のエピソードは、本田の著書や伝記に書かれている。だが、重要なのは、この時期の体験が、本田のその後に大きく影響したことである。
熱中する仕事ぶり、臨機応変にきく機転、自分で考え、工夫する発想の豊かさ、勘の良さ。アート商会の主人・榊原郁三氏は、この少年の非凡な才能をすぐに見抜き、目を掛けるようになる。本田も、主人から学んだ。修理の技術だけではなく、顧客への接し方、技術者としての矜持(きょうじ)まで、榊原氏は学ぶに十分な優れたエンジニアであり、経営者だった。修理業にとどまらず、ピストンの製造までを手掛けた企業家でもあった。

本田は、
「尊敬する人物は?」
との質問に、必ず、かつての雇い主、榊原氏の名を挙げている。さらに、アート商会の修理業務には、モーターサイクルが含まれていたことも、意味深い。当時は、自動車もモーターサイクルも、限られた階層の持ち物だった。そして、そのほとんどが外国車だった。しかも、現在よりはるかに数多く存在していた世界中の大小さまざまなメーカーのクルマ、大量生産車から少量生産高級車、スポーツカー、こんなクルマまでがと驚くほどの希少車までも、日本に輸入されていた時代だった。

アート商会には多種多様なクルマが修理に持ち込まれた。貪欲なまでに知識欲旺盛な本田には、絶好の実地勉強の場所だったのだ。

「よくまあ、そんなことまで知ってるなぁとビックリするくらい、クルマのエンジニアリングの知識は広くて深かった。メカニズムには精通していました。アート商会の徒弟時代、アート商会浜松支店での経営者時代に、おやじさんは、それこそ現場・現物・現実で、それらを学んだんでしょうね。知識だけじゃなく、溶接から鋳造から、何から何まで名人級です。紙の上の学問しか知らなかった僕らじゃ、とても歯が立たなかった」
と、河島は言う。