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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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独創で『無から有を生じる』。
カブF型の販売店開拓DM戦略 / 1952

独創で『無から有を生じる』。 カブF型の販売店開拓DM戦略 / 1952

藤澤が経営に参加したころ、既にリュックサックでブローカーが買い出しにくる一時期は終わっていた。数多くの2輪車メーカーが乱立した上、不景気が重なって買い手市場に変わっていた。モーターサイクル販売店の数は、日本全国でおよそ300店しかなかった。その内Hondaを扱う代理店は20店ほど。もちろんHonda専門店ではない。新参のHondaは、すべて委託販売で、しかも、支払いは先方の都合まかせという状態だった。
つくる能力と売る能力が、極端にアンバランスなのが、この時期までのHondaだったのだ。

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1世を風靡(ふうび)したヒット作"白いタンクに赤いエンジン"のカブF型。藤澤のダイレクトメール戦略によって、およそ15000軒の自転車店で販売され、日本中に普及した

本田が藤澤に全面委任したのは、営業体勢の強化と、銀行取引関係である。とりあえず、効率の悪い代金回収状況をどうするかも問題だったが、根本的に大きな課題は、いかにして販売力の弱い現状を打ち破り、代理店網・販売店網を開拓していくかであった。

このころ、藤澤の身近にいて、その熟慮断行と、奇策縦横ぶりを目の当たりにした1人が、川島喜八郎(元、副社長)である。

「私は、河島さんや白井さんよりだいぶ後で、1951年の入社です。大学を出てから、故郷の静岡で油屋を自営していたんですが、Hondaというオートバイをつくってる会社が営業の人間を募集しているという話を聞いて、今の商売も将来あまり期待できそうもないし、おもしろそうな会社だというから、試しに行ってみようかなあと、浜松まで出掛けたんですよ。最初に面接したのは、本田宗一郎さんでした。どう見ても、町工場のおやじさん然とした人が、初対面でいきなり、『今にウチは世界一の2輪車メーカーになる』と、こともなげに言うんです。なのに、全然イヤ味がない。不思議な魅力の人でしたね。『おまえさん、営業希望なら藤澤に会え』となって、東京へ行きますと、魚屋の隣のしもた屋が営業所で、藤澤さんがおられた。ハエ叩きを持ってた。魚屋からハエが来るからね(笑い)。一見、将来を託しにくい雰囲気でした。ですが、これまた、何とも大きなスケールを感じる人で、『本田宗一郎は必ず世界一になるような商品をつくるだろう。それを、いかに売るかが私の仕事なんだ』とおっしゃる。本田さんのモノづくりの考えと技術力に、本当にほれ込んでおられるのがよく分かりました」。

会社の外観はどうあれ、2人の人柄に強くひかれて、川島はその場で入社を決めてしまった。そして、自ら希望して、浜松工場で3カ月の実習をした後、東京に赴任した。

E型発売のころには景気が回復し、売れ行きも上昇していたが、販売面の古い体質はまだそのままだった。長年の商習慣を、そう簡単に変えられそうもなかった。
関東以北が東京営業所のテリトリーとされていたので、川島たち若い営業マンは、都内から東北まで新規代理店の開拓に駆け巡った。自動車系のディーラーを訪問した時など、
「Hondaって何をやってる会社なの?」
と聞き返されることが多かった。それでも、懸命の努力の末、何軒かの契約を取ることができた。

1952年4月、Hondaの本社は浜松から東京都中央区槇町3の3に移転する。ただし、オフィスの見かけは、営業所時代より少しはましになったという程度だった。

「藤澤さんは、日夜考えて、タイミングを待っていたんですね。マスセールにふさわしい大衆商品ができたところで、一気に大勝負を賭けようと、じっと我慢してたんでしょう」(川島)。