『信頼と友愛』。
心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

『信頼と友愛』。 心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

「その1954年、ピンチの始まり出した4月に、僕は入社しました」
と語るのは、向山文雄(元・常務)である。

「同期には、3代目社長になった久米さんや、元・会長の吉沢さんたちがいました。埼玉製作所に配属されて入った途端に、修羅場です。2カ月くらいは、12時前に家に帰れた日がなかった。でも、なぜかみんな明るくて、血気盛んで、苦にしてなかったな。ちょうどそのころに、あのマン島TT出場宣言が出たんだけど、あれは、ホーッという感じで、先の希望を持たされましたね。あれに刺激されて、おれも今に天下を取るぞ、みたいなことを言い合って。森井さんたちの苦労も知らず、こっちは独身、青春真最中なんだ。夢を食って生きてたやつもいたんです(笑い)」。

向山は、その後、組合専従になる。

「私が書記長になってからだから、少し後の話になりますが、労使関係がいささかこじれて、会社側が委員長ら3人を懲戒解雇、私も昇給停止半年の罰を受ける事件があった。その最中に執行委員の1人が不祥事を起こし、組合が彼を除名処分にするといったことも重なり、ゴタゴタしました。結局、これは裁判になり1審で組合が勝訴し、すぐに和解となったのですが、私たちは本田さんと直接話をしました。その時おやじさんが、『なあ、内輪同士のケンカはやめような』と。このおやじさんの一声で、僕らも、本当にそうだと思った。こういうことが土台になって、労使共に健全な協調へと発展していきましたね」(向山)。

ドリーム4EとベンリイJの名誉のためにも、一言、加えよう。キャブレターのトラブルを解決した4Eは、本来の性能を取り戻し、ドリームEシリーズの中で最多生産台数を記録した。ベンリイJシリーズは、年を追うごとに急速に人気を高め、Hondaの主力商品の一つとして、足かけ5年間も生産されたのだ。

カブF型は生産中止が決定された。取り付けられる自転車の品質の不統一から起きるトラブルを、Hondaでは解決できなかったことも、潔くあきらめた理由である。

初代ジュノオK型は、約1年半の短い期間で生産を終える。総生産台数はわずかに5980台。ただし、土田らが苦心したプラスチック技術は消えなかった。5年後、それは画期的な姿で復活するのである。