『信頼と友愛』。
心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

『信頼と友愛』。 心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

4億5000万円の輸入工作機械は順次納入されていたが、その能力を生かした製品の誕生はまだこれからだった。しかし、支払い決済は待ってくれない。さらに、トラブルが解決した今、大量在庫となっている4Eを売るのが先である。一転して、減産体制を採らなくてはならなかった。

藤澤は、外注部品メーカーにも協力を要請。Hondaの窮状を隠すことなく説明した。藤澤の著書『松明は自分の手で』の中に、この時の状況が書かれている。

『一方、5月26日には、白子工場に外注業者全員に集まってもらい、支払いの一部棚上げを頼んだ。『今までのようにお金が払えない。だから、これから買う品物にこれまで買ったものを加えてその代金の30%をお払いする。手形は書かない、ということで、ひとつここは我慢してもらえないだろうか』。ここで手形を上乗せして切れば、危険です。といって、承認してもらえなければ、部品が入らない。生産はストップする。話ながら生唾が出ましたね。なんとか承認してもらえた時は、ほっとして、力が抜けちまった。2、3離れていった業者も出ましたが、大部分の方々が本田技研の将来に賭けてくれたわけですね』。

販売不振、クレーム続出の中で、営業マンも苦闘を続けていた。
「輪転機でお札を印刷してる夢を見たほど、朝から晩までお金集めに走り回りました」
と、中野は言う。エンジニアを目指して入社した中野は、メカニズムに強い営業マンが欲しいという藤澤の要望で、カブF型発売開始の時から営業課に転属し、当時は九州支店次長だった。

「ある代理店さんに言われました。『品物を売ってしまって金を払わないのなら申し訳ないが、まだ在庫がこんなにある。そんなにお金が欲しいんなら、中野さん、あんたがこれを質屋に入れろよ』と。やりきれない気持ちだったな。こんな屈辱を味わったこともあるし、夜中じゅうオートバイで走って、雨に濡れて凍えながら集金して回ったこともある。問題解決に徹夜で取り組んだのは、エンジニアだけじゃなかった。セールスだって似たようなことをしてたんですよ(笑い)」。

藤澤は、メーンバンクの三菱銀行に、初めて支援を要請した。同じく『松明は自分の手で』に、その時のいきさつも書かれている。

『銀行に対しては、私は何でもしゃべった。いっさい隠しごとをせず、悪い問題も全部銀行に言った。(中略)すべてを知っていれば銀行も正確な判断ができるわけですよ。(後略)』。

この時、三菱銀行は当時の鈴木時太京橋支店長、川原福三常務の英断で、Hondaを全面的にバックアップしてくれたのである。

『この手術に絶大な後援をしてくれた三菱銀行は、本田技研が存続する限り永久に忘れてはならない。とくに、一身を投げ打って自分の信ずるところを重役に積極的に説明し、周囲の困難があったにもかかわらず、終始一貫、所信を通し努力して下さった鈴木時太支店長の名を、みなさんは忘れないでほしい』
と藤澤は翌1955年1月発行のホンダ社報12号に書いている。

1954年12月。労働組合は、越年手当要求の団交に入っていた。
「われわれが、会社側と掛け離れた要求をしたと言われてますが、それは違う。過大な額など望んでいません。あの当時は、みんな貧しかった。食うや食わず、昼の弁当を持ってこられない人もいたくらいです。今では想像もできないだろうけれどね。世界一もいいが、将来の夢だけでは生きていけない。闘争のための闘争をやるような組合員はほとんどいない。純朴な若者や、普通の家庭人ばかりです。だから、5月の連休返上も組合大会ですぐに決まった。なのに暮れの手当は、資金繰りが苦しいにしても、会社側からは何の説明もなしで、わずかな額の回答しかしてこなかった。
僕らは、経営のトップが説明をすべきだと、藤澤さんとの直接交渉を要求しました。本田さんは、工場や研究所を"オラんち"と言ってたくらいで、とんでもなく新しいところと、親方的意識とがごっちゃに存在する人です。それが分かっているから、われわれも本田さんに出てくれと言わなかった。あの天真爛漫、私心のないおやじを傷つけたくないと、みんなが思っていた。従業員が社長に、こんな心づかいをする。おやじさんならではの人徳ですね(笑い)」
と、当時、埼玉労組の書記長だった森井和吾は語る。

藤澤の提示した越年手当回答額は、一律5000円だった。組合の要求額は、2万5000円。当時の平均レベルである。

「(組合員)1800人の前に私は1人で出かけて行った。執行委員長が私に『この5000円という額をどう思うか』と質問しました。私は『問題にならない低い金額だ。しかし、もうすこし出せたとしても、後で会社がつぶれたときに、なぜあのとき頑張らなかったのかと追及されるとすれば、経営者として誠に申し訳ないことになる。それよりも、年明けて3月ごろになればまた車も売れるだろうから、そのときにまた団体交渉をしたい』と返事をした。そうしたら、みなも私の気持ちを汲んでくれたのでしょう、万雷の拍手です。拍手がとまらなかった。委員長が、『団体交渉はこれまでとします』と発言すると、また満場の拍手です。みなの間を通り抜けて歩いて行くと、両側から『頼むぞ!頼むぞ!』という声がかかったときには涙がこぼれてしまった。ほんと、泣きながら、きっとやるぞと心に誓いました」(『経営に終わりはない』より)。

森井は、その時を振り返り、力を込めて言う。

「Hondaは素晴らしい従業員に恵まれていた。それを忘れないでほしい。藤澤さんのこの説得に応える純粋な心の人たちが、危機のHondaを下から支えていたんです」。