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『信頼と友愛』。
心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

『信頼と友愛』。 心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

しかし、宣言文が出された直後、Hondaの状況は一変した。これまでと比較にならない、未曾有の経営危機に襲われたのである。

「藤澤さんはジュノオにほれ込んでましてね。『これは画期的なスクーターなんだ。大量に売れるはずだ。販売店を募集して保証金を納めてもらおう』と、非常な意気込みでした。保証金は300万円でしたね。高いから半分にしてくれというお店もあったりして。ところが、そのジュノオが華麗なる失敗作だったことが分かった。前宣伝が派手だっただけに、後始末が大変でした。
そこへまた、パタッとカブF型の売れ行きが止まってしまった。後を追いかけてきた他社の製品のほうに人気が移ったのと、もう自転車用補助エンジンが、時代遅れになり始めていたこともありました。悪いことは重なるもので、しっかり売れていたドリームにまで問題が起きた。前の年の12月に排気量を220ccに上げて発売した4E型が、原因不明のエンジン不調でクレーム続出になったんです。おまけに、ベンリイも、ギヤとタペットの騒音が大きいと、評判が良くない。営業は四面楚歌の状況に陥りました」
と、川島喜八郎は当時の苦境を語る。
4つの主力商品すべてが、同じ時期に、そろいもそろって問題を起こしたのである。

ジュノオK型の不評の原因は、いくつもあった。エンジンが放熱性の低いFRPで、すっぽりカバーされているため、冷却の悪さによるオーバーヒートが頻発した。軽量化に役立つはずだったFRPボディーは予想外に重く、さらに豪華装備が加わっての170kgもの車重は、取りまわしを困難にしていた。この重さのためにアンダーパワーとなり、走りぶりも良くなかった。タイヤ交換のしやすさを考えた片持ちサスペンションのトラブルも発生した。クラッチ操作がモーターサイクルと同じで、遠心クラッチやVベルト方式の簡単な操作に慣れたスクーターユーザーに好まれなかった。

本田の4月渡欧予定はキャンセルされた。直ちに技術的な問題点の解決に取り組まなければならなかった。
藤澤も、急きょ、営業面での対策を図った。前年8月、軽自動2輪車排気量規制が4ストローク車は150ccから250ccに拡大されたため、生産の主力を、220ccのドリーム4Eに移していた。当面、この危機を切り抜けるのに役立つ機種は、146ccのドリーム3Eの後継車として開発されていた189ccのドリーム6Eしかなかった。

本田とエンジニアたちは、4Eの不調の原因をつかむのに苦しんでいた。減速時にアイドリングが不調になり、エンストを起こすのである。原因を発見するまで眠れない日々が続いた。
藤澤は、4月20日、埼玉製作所に赴き、従業員全員を集めて危機の状況を率直に説明した。そして、緊急体制への協力を訴えた。4Eは問題が解決できるまで販売を中止する。6Eの増産でそれをカバーするしかないのだ、と。労働組合はこれを受け入れた。5月の連休を返上しての、労使一丸の奮闘が始まった。

「そのころ、製作所の製品出荷場にはドリーム4Eがズラーッと並んでいました。出荷を止めた在庫車と、全国から返品されてきたのとがね。ある日、全員集まってくれと声がかかった。そしたら、本田さんと藤澤さんが2人並んでた。おやじさんの白いユニフォームは薄汚れていて、クチャクチャのシワだらけ。目は真っ赤に充血していた。それで、藤澤さんの緊急事態の説明の後、おやじさんがしゃべったんです。いつものような冗談も出ないし、世界を目指すも出ない。4Eのどこがどう悪かったのか、説明してくれた。原因はキャブレターだったんだと。キャブレターの設計と取り付け位置に問題があって、燃料が途切れてエンストするんだ。でも、やっと解決のめどがついたと。おやじさんが、『すまなんだなぁ。迷惑かけたなぁ』って、われわれに謝ったんです。その時は、何だかジーンときちゃいましたね」。
と、当時、埼玉製作所で車体組立をやっていた新入社員・堀越昇は語る。

4月20日からの6Eの緊急増産体制は、1カ月足らずの5月8日、ひとまず終わる。エンジニアが全国へ散り、すべてのドリーム4Eのキャブレターをセッティングし直した。
とはいえ、危機が終わったのではなかった。