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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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旧軍用放出エンジンとの出逢い。
『夢』と『時代の要求に応える』出発点 / 1946

旧軍用放出エンジンとの出逢い。 『夢』と『時代の要求に応える』出発点 / 1946

1946年9月のある日、友人の犬飼兼三郎氏の家を訪れた本田は、そこで偶然、小さなエンジンに出逢う。アート商会浜松支店を経営していたころ、タクシー会社をやっていた犬飼氏とは自動車修理を通じての古くからの知り合いだった。犬飼氏が、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の6号無線機発電用エンジン。これを見た本田の頭に、アイデアがたちまちひらめく。運命的と言うべき瞬間だった。この出逢いが、彼の向かう将来を決め、後のHondaを生むことになる決定的瞬間だった。

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浜松・山下町の山下工場
(1952年ごろ)

本田は、もともと自動車修理工である。エンジンはお手のもの、そして、発明家である。
――これを自転車用の補助動力に使おう――
と思い付くのに、時間はかからなかった。

自転車に補助エンジンを付けるというアイデアは、昔からあった。イギリスなどで製品化され、戦前の日本にも少量輸入されていた。そもそも、モーターサイクルの発祥そのものが、自転車に動力を付けることから始まったのだ。補助エンジン付き自転車は、モーターサイクルの祖型・原型に近い。しかし、あったというだけで、戦前には全く普及していない。だが、戦前より劣悪になっていた日本の交通事情の中では、大衆の足は自転車だった。山のような荷物を積んで働く運搬道具でもあった。これに補助動力が付けられたら、どんなに楽か。どれほど役に立つか。人に喜ばれて、同時に商売になるアイデアを、本田自身が最も得意とする分野の中で発見したのだ。

すぐに試作が始まった。家にあった湯たんぽを、とりあえず燃料タンクに活用したというエピソードも、この時のことである。最初の試作は、このエンジンを自転車のハンドル前部に取り付け、ゴムの摩擦ローラーで動力を前輪タイヤの側面に伝えて駆動する方式である。いみじくも、フランスのベストセラー・モペッドであるヴェロソレックスに似た発想であった。しかしこの方式は、当時の粗悪なタイヤをすぐに擦り減らしパンクを起こしやすいことや、操縦性の悪さから早々にあきらめ、オーソドックスなエンジンレイアウトのVベルトによる後輪駆動方式に改められた。

だがここで、早くも独自のアイデアが採用されていることに注目しなければなるまい。手動式のクラッチ機構兼ベルトテンショナーの取り付け方で、これは実用新案として登録されている。

戦後のこの時期、ほぼ同時発生的に自転車用補助エンジンが日本のあちこちで登場する。偶然ではなく、時代の要求から生まれた現象であった。本格的なモーターサイクルは、戦前から存在した数社がわずかながら生産を再開していたし、全く新しいタイプの2輪車として、敗戦の年の1945年に、日本製スクーターの第1号・ラビットも生まれていた。

とはいえ、それは大衆にはとても手の届かない価格だった。これに比べて、自転車用補助エンジンは、何とか買うことのできる画期的に便利な乗りものとして歓迎されたのである。

Hondaの発端となった、この2ストローク50cc改造エンジンは、その中でも最も早い時期に登場したのだ。

『昭和21年晩夏、ススキのなびく浜松市山下町30番地の焼野原に、ささやかなバラックが建てられた。中にベルト掛けの古旋盤、外に工作機が約10台ばかり並び、入口に本田技術研究所の看板が出され、社長以下12、3名の従業員が忙しく働いていた』
とは、本田技研創立7周年に刊行された社史の冒頭の一節である。社長とは、言うまでもなく本田宗一郎。晩夏とだけ書かれているが、正確には9月1日であった。自転車用補助エンジンの発売が10月であるから、本田技術研究所は、この無線機発電用エンジンとの出逢いのほんの少し前に設立されていたのである。

「このエンジンに出逢うまで、いろんなことにトライしてたわけですが、どれもいま一おやじさん(本田宗一郎のこと)はノッていなかった。でも、この時は今までとまるっきり目の色が変わっていました。ゴムローラー方式が駄目だったから、エンジンを置く位置を真ん中にしようか、後ろに付けようか、ベルト駆動にするか、チェーンにするかなどなど。3日か4日、昼夜ぶっ通しで、やっていましたよ。私も一緒に手伝ったんです。その時にはもう、本田技術研究所の看板が出ていました」
と、磯部は、本田の熱中ぶりを語る。

「『こんなのができたから、お母さん、乗って走ってみろよ』、って1台家に持って来たんです。私が自転車を漕いで、食料の買い出しに行く苦労を見かねてあれをつくったなんて、あとでカッコいいことを言ってますけど、そんな気持ちも少しはあったかも知れません。だけどそれより、女でも扱えるかどうか知りたかったのが本音だわね。私はいわば実験台。人がいっぱいの表通りを走らされるんですから、1番きれいなモンペをはいて乗りましたよ」。

Honda前史における初の女性テストライダーとなったのは、さち夫人だった。通行人は、さぞ目を見張っただろう。自転車のくせにオートバイのようなものが、女の運転で走り回っているのだ。本田の目論見には、街での話題づくりも入っていたらしい。

「ひとしきり走って戻って来たら、一張羅のモンペが油でベッタリと汚れちゃってるの。これじゃあ駄目ですよ、お父さん。買ったお客さまに叱られてしまいますよ、と言ったら、いつもの『うるさい!よけいなこと言うな!』が出ないで『うん、そうだなぁ』って珍しく素直だったわよ」。

汚れる原因は、キャブレターからの混合油の吹き返しだった。さち夫人の意見通り、市販時には汚れを防ぐ改良が、きちんとされていた。

6号無線機発電用エンジンは、キャブレターで有名な三国商工の製品だった。本田は、小田原と蒲田の三国商工の工場に残されていたすべてを、素早く買い取った。

しかし、集めた500基ほどのエンジンを、単に駆動系部品を付けるだけで市販するような安易な方法は、決して採らなかった。1基1基完全に分解し、手を加えて組み直した上、自転車に取り付けて、試走してから売っていた。今の"完成車検査"のハシリである。少なくとも本田技術研究所の名を恥しめないだけの自転車用補助エンジンに仕上げてあったのだ。

こうしてできた自転車用補助エンジンは、もっぱら口コミで、たちまち評判になった。ウワサを聞きつけて、名古屋、大阪、東京などの大都市から、買い手が浜松にやって来た。

翌1947年3月、初めての学卒エンジニアとして河島が入所する。本田の自宅で、コタツにあたりながらの就職面接を経てのことであった。
「『学校出の人に払うような給料を、今のウチでは出せないんだ』、とお父さんが言ったのに、河島さんは、『それでもいいです』、と言ってくれたんですよ」
と、さち夫人はその時のことを語る。

「うーん、はっきり言いまして昭和22年でしょ。就職難の最中。もう、いくらでもいい。とにかくエンジニアらしい仕事をさせてもらえるなら、どこでもよかった。おやじさんは浜松では有名な技術者でしたから、その人のところで働けるのならって。それに家が山下町の隣の元目町なので、歩いて5分。交通費もいらない。確かに初めは安給料で、時々遅配もありましたが、親掛かりの独身ですからまあ大丈夫。今思えば、運が良かった(笑い)」(河島)。

明日からおいで、と、簡単に就職が決まった。

「で、入って最初の仕事は無線機発電用エンジンの改造です。毎週月曜に10台ほど運び込まれるのを、発電機部分を切り離して分解する。火曜にそれをキレイに洗う。水木金と加工をしまして、土曜に組む。土曜の午後から自転車に取り付けて試運転する。試運転といったって、近所の坂道を登るだけだけど(笑い)。それが終わったころには、かつぎ屋さん、今風に言えばディーラーさん、あやしげなヤミ屋的ブローカーさんたちまでが大勢待ってて、リュックに2台くらい詰め込んで、東京や大阪や、全国に運んでっちゃう。前金を置いてね。札束が見えて、おっ、今月は給料大丈夫だ、遅配じゃないぞ、って喜んだものです。
おやじさんは、すぐに従業員を怒鳴りまくるとか、そんなのが有名だけど、本田技術研究所時代には、こういうこともありましたよ。ある日、さち夫人が山下工場の事務所に来られた。『奥さんが見えたけど、何だったの』と聞いたら、経理担当の男が『お父さんが1銭も家にお金を入れてくれない。お買い物ができないから、悪いけれどお金を貸してちょうだい』って言って来られたんですと。おやじさんにしてみれば、従業員の給料のほうが優先なんだ。女房子供なんかあと回し(笑い)。そういう人物だったんですよ」。

河島は、付け加える。
「でも、これは本田技研工業株式会社になる以前の話。株式会社になってからは、こんなことは絶対になかった。昔、アート商会浜松支店が、おやじさんの個人経営から会社組織に変わった時も、それまで散々手伝わせた奥さんに、『明日からお前には仕事は関係ない。口も顔も出すな』と、厳命したそうです。全く公私混同をしないし、させない人でした」。

商品がよく売れているころさえ、本田技術研究所の台所は決して楽ではなかった。売掛け金の未収が多かったという。こと金銭勘定は、本田の最も苦手、不得意とするところだった。

「そこが不思議なんだなぁ。製品のコストとか、工場の生産効率とか、そういうことは、だれよりも厳しく合理的に考えられる人です。ところが、営業関係でのやりとりは全然駄目でした」(河島)。

改造エンジンが、間もなく底をつくのは目に見えていた。当然、本田は、次の準備に取り掛かる。もちろん、自分たち自身のエンジンの開発、Honda製エンジンの製作だった。

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