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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『失敗を恐れたらチャレンジはできない』。
本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

『失敗を恐れたらチャレンジはできない』。 本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

『だれにでもやさしいオートバイを!』の挑戦は、成功とはほど遠い結果となった。もとより、失敗を予期してつくるはずもない。お客さまを満足させるレベルに、技術が熟していなかったのである。

「それでも、おやじさんは、意気軒昂(けんこう)なんです。メゲた顔なんか、われわれには見せない。『人生、失敗なんていくらでもある。いいと思ったことをやって、しくじったのは無駄にはならん。これじゃイケネエんだってことが分かっただけでも、儲け物なんだぞ!』って。
ちょうど、ドリームD型を発売した年の8月に、古橋広之進選手がアメリカに遠征し、全米水上選手権大会の1500mでものすごい世界新記録を立てましたね。2位をプール2往復近くぶっちぎって。ラジオは珍しく深夜放送をするわ、紙不足時代なのに新聞は号外を出すわ、日本中が興奮の渦です。特に浜松は、彼の地元ですから大熱狂でしたよ。今思うと、あのあたりからです。『世界一』なんて言葉を、おやじさんが口に出し始めたのは」

河島の記憶では、それまで『世界』というセリフを一度も聞いたことはなかったという。

「『日本人はアメリカに戦争で負けて、すっかり自信をなくしてる。けど古橋コウノシン(ヒロノシンが正しいのだが、本田はこう言っていた)は裸一貫頑張った。古橋が遠州人なら、おれだって遠州人だ、やらまいか!』と、こうなったわけ。私には『河島、おまえは中学で古橋の1級上だろ、しっかりせい!』と(笑い)。そのうち、どんどん言うことが過激になってきちゃって『浜松でボソボソやってたって、たかが知れてる、東京へ出るんだ』になり、ついには『世界一でないと日本一じゃない』という、あの名文句が出てくるに至るんです。そこまで発想が飛んじゃうか、すごいオッサンだなぁ、と、あきれ半ば、でしたがね(笑い)。夢のようなでっかい目標を、まず口走ってしまう。いったん口にした以上は、いつか必ずやり遂げる。それが、おやじさんです。そう分かったのは、ずーっと後になってからですが」(河島)。

ともあれ、1949年、きわめて困難な時期に、Hondaは本格的なモーターサイクルメーカーへ踏み出した。製品も、生産体制も、これまでにない新しい概念、日本離れしたコンセプトでのチャレンジ開始だった。

しかし、Hondaに欠けているものがあった。販売体制、営業政策である。こちらは、全くの旧態依然だった。こんな時、本田は、またもや、運命的な出逢いをする。藤澤武夫との邂逅(かいこう)であった。

ここで、本田宗一郎と藤澤武夫、それぞれの、それまでの足跡をたどりたい。
Hondaの基盤を築き上げた2人の人格・思想・哲学が、いかに形成されたのかを、推察するよすがともなるからだ。