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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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町工場にもスーパーファクトリーにも、
『夢と若さ』は、いつもある / 1959

町工場にもスーパーファクトリーにも、 『夢と若さ』は、いつもある / 1959

1959年1月、本田は1人で、ぶらりと大和工場に現れ、生産技術課長の白井孝夫を呼び出した。白井は前年11月末に起きたスーパーカブの初期トラブルを解決、年末までに増産体制を取り終えたばかりだった。

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粗末なバラックの山下工場から13年後、かつて夢見た大量生産工場鈴鹿製作所は完成した。自動車業界はもとより、工業界から見学者が数多く訪れる、当時最先端の工場だった。写真は1967年撮影のもので、2階から現場を観ているのは本田宗一郎

「忘れもしません。1月19日の夕方でした。『おまえ、しばらくヨーロッパに行って来い』。突然、そう言われたんです。何のためですか、と聞くと、『行けばいいんだよ。目的は、自分で考えろ。期間も、おまえが好きにすればいい』と言うだけで何の説明もなしです。
スーパーカブは売れに売れてましたけれど、世の中はナベ底景気というデフレ不況の最中です。外貨不足で、渡航許可も外貨割当も、簡単に出る時期じゃないんですよ。この年にはこの後、河島さんがTTレース初出場で、川島さんがアメリカン・ホンダの設立で、やっぱり苦労なさるんですが、私は通産省に2度追い返されました。履歴書を見て、『大学の経済を出た技術者やセールスでもない人間が、国の貴重な外貨を使って、目的もなく外国に行くとは何事か』と、けんもほろろ。3度目の時に、『近い将来、Hondaはかならず外貨を稼ぎます、世界に輸出できる2輪車を、今つくっています、もし駄目だったら腹を切ります』なんて極端なことまで言って、やっと渡航許可だけ下りたんです。川島さんがスーパーカブをアメリカでたくさん売ってくれまして、腹を切らずに済みましたが(笑い)」。

白井は、外貨を1ドルも持たず、往復の航空チケットだけを手に、ヨーロッパへ出かけた。滞在費は、やむなく、現地で工作機械輸入のビジネスを行っている貿易会社にHondaから申し入れて、立替えてもらったのである。

「とにかく、私の仕事は生産技術ですから、帰って何を聞かれても答えられるように、工場施設はもちろん、人事管理から、給与体系から、交通事情から、駐車の仕方から、ファッションから、何でもかんでも、ありとあらゆることを見たり聞いたりして歩いたんです。ドイツ、スイス、イタリア、イギリスと。工場関係では、やっぱりドイツが進んでいましたので、またドイツへ戻って、しばらくしたら、6月20日に大和工場の同僚の榎本さんから手紙がきた。
『実は、スーパーカブの新しい工場をつくる計画がある。候補地もいくつか選んで、あなたが帰ってくるのを待ってる』と。今までの『Hondaの歩み』には、前もって計画を知らされていてヨーロッパに行ったことになってるが、私は本当に何も聞かされてなかったんです」(白井)。

3カ月ぶりに、白井は急いで帰国した。いったん計画が決まったら、何事であれ、猛烈なスピードで動き出すのを、よく知っているからである。

「思った通り、社長が待ち構えていました。『明日から、候補地を見に行く。おれと一緒に来い』です。社長の運転するクルマに、高橋健介常務、私と塩崎さんの3人が乗せてもらって、候補地回りが始まりました」(白井)。

群馬県の高崎に2か所、栃木県の宇都宮、岐阜県の犬山、三重県の鈴鹿に2カ所が、主な候補地だった。

「おやじさんの土地選びの基準は、立地条件や誘致条件だけじゃないんだな。『土地とか水とか電気の前にな、人なんだよ。そこにいる人を選ぶんだよ』と。これは、人間尊重のおやじさんの思想そのまま。ほかの条件がどうよかろうと、誠意のある人のいるところが1番だ、というわけです。自治体の人たちを含めての意味でね。
ある候補地で、県会議員だの何だののクルマが、ずらーっと一緒にくっついて来たことがありました。土地の説明もそこそこに終わって、一席設けてありますから、後はそちらでと、市役所の人が言ったら、『おれは帰る!』って、クルマに飛び乗ってどっかへ行っちゃった(笑い)。白井さんや僕らは、電車で帰ってきた。『おれはご馳走食いに行ったんじゃねぇ!』と、翌日になっても、カッカしてましたよ」
と、置き去りにされた塩崎は語る。

それと対照的なのが、鈴鹿だった。

「鈴鹿では、第一印象から驚きでしたね。まず、市役所から違った。お役所って、どこでも机の上は書類の山、というのが僕らの先入観。でも、鈴鹿市役所はきちっと整理整頓、何も散らかってない。応接室に通されたら、さっとおしぼりが出た。それと冷やしたお茶が出た。熱いお茶じゃない。7月の暑い最中ですからね。そして、市長の杉本龍造さんが、背広じゃなく、作業着でゲートルを巻いて待っておられた」(塩崎)。

Hondaの一行は、すぐ、現地に案内された。

「杉本市長が、サッと合図された。すると、はるか遠くに、一斉に旗が立った。『あそこからあそこまでが、候補地です』と。もう、一目で分かっちゃうんだ。いやぁ、やるなあって、感動です。今でも、あの時の記憶は鮮明だな」(塩崎)。

誘致条件についても、杉本市長自らが説明した。

「見事、というほかありません。まだ翌日も、有力な候補地へ行く予定がありましたから、私としてはそこを見るまでは、結論めいたものはまだ出せない。ですが、現場から市役所へ戻ると、またお茶とおしぼりが出まして、お茶菓子ひとつも出ない。『何のお構いもしませんで』と、そのまま送り出されたでしょう。こういう市長が市政をとっておられる。ここだったら、われわれが来ても大丈夫だ、間違いない。それだけは、確信しましたね」(白井)。

候補地は、綿密かつスピーディーに検討された。

「鈴鹿のAとBの2カ所を見て、ほかとも比較して、私なりの結論を出しました。東京へ戻って、本田さん、藤澤さんをはじめ、役員皆さんのそろわれた席で、私は鈴鹿のBがいいと思う、と。Aは南北が400m、東西が1500m。ウナギの寝床のように長いのは、工場用地には適さない。将来の拡張性も含めてBです、と。本田さんも『おれもそう思う』とおっしゃって、藤澤さんが『じゃ、そこにしましょう』と、今の鈴鹿製作所の土地が決まりました」(白井)。

しかし、この後の役員会は、白井が考えもしない展開になった。

「藤澤さんが、その後、続けて、こう言い出された。『今度の鈴鹿の世界にもないような新しい工場づくりは、白井君に責任者になってもらう』と。エーッと思いましたよ。会社の命運を左右する大プロジェクトだということは、よく分かっているんです。ヨーロッパで勉強してきたし、この仕事に参加させられるとは思ってましたけど、まさか責任者だなんて、想像もしていませんから。すると、また続けて、『ついてはこういう大きな仕事なので、こういう人材が欲しい、と白井君が言ったら、各事業所は無条件で応じてくれ』。役員の一人ひとりに、藤沢さんは返事を聞くんですよ。否応なしです。『よし、みんな異議なしだ、安心してやれ』と」。

白井は、あの時の緊張感を昨日のように思い出すと言う。

「今度は、藤澤さんが、私に向かって大きな声でおっしゃった。『しかし、条件が二つある。一つは、金はいくら使ってもいい。もう一つは、使った金は2年以内に、必ず回収しろ。これ以外には一切条件を付けない。後は好きなようにやれ』。社長は、うなずいて、こっちをジーッと見てるだけでした」(白井)。

白井は当時39歳だった。もちろん役員ではなく一課長である。ここでもまた、若いチャレンジャーが選ばれたのだ。

Hondaは6月、第8次の倍額増資を行い、資本金は14億4000万円となった。