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語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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1948年9月24日を覚えていますか? / 1948

1948年9月24日を覚えていますか? / 1948

「記憶がありませんね。全く。ということは、いつもと同じだったんでしょう」。
その日、そこにいた河島喜好(現、最高顧問)は言う。
「仕事が変わったわけじゃないし。夕方、退社のころ、『今日から株式会社になったんだって』と、だれかに言われた気がします」。

やはり従業員だった磯部誠治(元、ホンダエンジニアリング副社長)も言う。
「全員が集って創立祝い?そんなの、ありゃしません。社長の訓示もない。工場の看板も掛け替わっていなかった。古いまんまだったと思います」。

『本田技研工業株式会社』は50年前のこの日、創立された。資本金100万円。社長の本田宗一郎以下、従業員34人。ただし、およそ創立記念日らしい雰囲気は何一つなかったという。みんな、いつもと同じように夢中で働いていたのである。昨日までの『本田技術研究所』と、仕事の上では少しも変わらなかったのだ。1948年9月24日。この時、日本はどんなだったのか。当時を生きた人たちでさえ、もはや、遠い記憶になりがちである。まして現代の若者たちが、そのころの日本の姿を実感する術はないように思える。
ここで、ちょっと半世紀をワープし、創業の日に戻ってみよう。

当日の新聞は、ない。偶然、休刊日だったからである。

翌9月25日の朝日新聞の一面トップ記事は、『日独と速やかに講和マーシャル米国務長官国連総会で強調』とある。講和条約締結以前、敗戦国の日本は、まだ連合国軍の占領下にあった。
大見出しで『10月から労務加配増量。31業種を追加』という記事がある。それは要約すれば、一定の業種、キツい労働に携わる人たちに、主食の米の配給量を増やすということなのだ。例えば、炭鉱坑内夫は1日の加配量4合5勺、自転車組立工なら1合5勺など、仕事の内容によって差が付けられている。当時の一般人の米の配給量は1人1日3食分で2合5勺。1食分が、今の炊飯器の1カップ分にも足りない量である。主食を補うサツマ芋さえまだ配給制だった。飽食の現代からはとても想像できない食料不足・飢えの時代が、このころ続いていたのだ。

2面は社会面である。目立つ囲み記事の見出しに、『世界水準に近付く日本製品』とある。『終戦後まる3年、何から何まで不足だらけの問題性に苦しみながらも、世界水準に近づく製品がボツボツ現れ始め、わずかながら再生日本に明るい希望を持たせている』との書き出しで、真空管、カメラ、ボタン、人造真珠などが世界水準の80%程度に達するまでになっていることを紹介。『いずれも資材難にさえぎられている現状である』と結ばれている。

すべてが不足していた。新聞もその証拠に、わずか1枚2ページで、朝刊のみ。夕刊はなかった。

しかし、1948年の最も素晴らしいニュースは、水泳の古橋広之進選手の世界新記録樹立だった。彼は前年の1947年から400m自由形で世界記録を連発していた。この年には第2次大戦後初のオリンピックがロンドンで開催されたが、敗戦国日本とドイツの参加は許されなかった。そのオリンピックと時を同じくして開かれた日本水泳選手権大会の1500m自由形で、ロンドンの優勝記録を40秒以上も引き離す、世界新記録を打ち立てた。彼の活躍が、敗戦ですべてに自信を失っていた日本人に、どれほど希望を持たせたことか。そして、浜松生まれの古橋と同郷の遠州人・本田も、彼の偉業に大いに感動し、やる気を触発された1人だった。

戦争直後からほぼ1年、本田が自称・人間休業を家族に宣言して仕事らしい仕事をしなかったのはよく知られている。軍需工場の多かった浜松は、繰り返し激しい空襲を受け、見渡す限りが焼け跡だった。それまで経営していた東海精機重工業の工場も、瓦礫の山と化していた。航空機、船舶、自動車の生産は止まってしまい、製品であるピストンリングの需要も激減していた。しかし、こんなことが人間休業の理由ではなかったと思われる。

「東海精機の株を、トヨタさんに全部お譲りして、無職になってしまったの。『軍がいばりくさる時代が終わってよかったなぁ。これからしばらくは何もしないよ。お母さん、当分養っとくれ』って、本当にまるで働かない。食糧難の最中でしょう、お父さんのほかに育ち盛りの子供3人、庭を耕して野菜つくったり、私の実家は農家ですからお米を分けてもらいに行ったり。あの人は庭に出ても草1本むしらない。ひがな1日、庭石に腰掛けてるだけ。ご近所で評判の"何にも仙人"でしたよ。夜になると友達を集めて、知り合いの酒屋さんに内緒で売ってもらったドラム缶1本のアルコールで酒盛り。お父さんらしいのは、アルコールに炒った麦と杉の葉を入れて、ウイスキーっぽく工夫するところ。やらされたのは私ですけどね。やれ麦が焦げ過ぎたとか、口だけはやかましく注文して。そのうち、人のウワサでは製塩機をつくったとか、アイスキャンデー製造機をつくったとか聞こえてくるけれど、本人は何も言ってくれない。塩一つまみも、アイスキャンデー1本も家に持って来ないんです」。

本田夫人・さちさんが語る、模索の季節の本田の姿である。

ほぼ1年を経て、本田は動き出す。
1946年の夏、東海精機重工業山下工場の跡地に、弟の弁二郎や元東海精機重工業の従業員数人を呼び寄せて、かき集めた材木で小さな工場を建てたのだ。繊維産業の盛んだった浜松という土地柄から、自身で考案したロータリー式織機(しょっき)をつくろうとしたが、資金不足から不成功に終わったと伝えられる。花模様入りのスリガラス製造とか、編み竹をモルタルで固める屋根板製造とかも試みるのだが、いずれも、本田らしくなく、あっさり途中であきらめているのが印象的である。
これぞという、心から打ち込める仕事を、発見できずにいたのではないだろうか。

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