開発者の信念と情熱から生まれた生活創造車
1990年8月、91年型レジェンドの立ち上げで狭山工場に長期滞在していた小田垣邦道(当時、技術研究所CE)のもとに、技術研究所から1本の電話が入った。用件はアメリカ向けの大きなミニバンをつくってほしい。具体的にはレジェンドのV6エンジンを積んだ大きなミニバンを、アメリカに新工場をつくって生産してほしいというものだった。これは、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)社長の雨宮高一からの強い要望でもあった。
1994年10月に発売されたオデッセイSタイプ4WD(電動サンルーフ仕様車)
早速、開発チームとして20人前後が集められた。小田垣は開発LPLとなり、1990年9月、5、6人のチームメンバーと共にアメリカに飛び、約1カ月間、アメリカにおけるミニバンの使われ方について、徹底的に調査をした。
「アメリカでは、より高級なクルマに乗りたいという価値観から、自分の使い勝手に合ったクルマに乗りたいという考え方にシフトしてきていた。そのクルマ文化に大いに共感を覚え、絶対にHondaもミニバンをつくるべきだという思いを強くしました」(小田垣)。
当時、アメリカで売られていたミニバンは約2万ドルだった。Hondaが新工場をつくり、レジェンドのV6エンジンを搭載すると、試算では3万ドルもの高額なミニバンになってしまう。何とか安くできないかと考え、4気筒のアコードのエンジンを使うことも、別案として検討した。そんな時に、このミニバン開発は正式な中止宣告を受けた。
「私としては命令は聞きました。しかし、中止すべきではないと思います」。
アメリカのミニバンニーズを満たすクルマをつくりたいという信念を持っていた小田垣は、本社の開発総責任者と40分間も電話で話をしたが、平行線のままだった。
チームメンバーもまた、続けるべきだと強く思っていた。それは拡大しつつある米国市場を、自分たちの目で観ていたからであり、ミニバン文化を日本に輸入すべきだと思っていたからでもあった。
その年の暮れからは、業務指示外で秘密裏に開発が始まった。社長と商品担当役員、技術研究所のトップらが、開発の継続を暗黙のうちに認めてくれていたことが、せめてもの救いだった。
チームメンバーは、さまざまなレジャーやスポーツの現場に出掛けては、クルマの使われ方を観て、話を聴いた。
「お客さまがほしいのは何なのか。それを見極めて、これでなくてはと言っていただけるような、他では得られない価値をつくれるかどうかが勝負だと思っていた」(小田垣)。