自動車王国アメリカに生産基地を築く
HAMでの生産活動に伴い、1979年7月には、HAMの技術コンサルティングと現地調達部品(以降、現調部品)開発サポートのためにHG-O(HG-Ohio Office)を開設。1981年4月には、HRA-O(Honda Research of America Ohio-Office)として発足し、2輪車の品質技術支援とアコードに適用する現調部品の開発をスタートした。
また、自立化に向けた体制づくりとして、1984年9月にホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(後のHonda・R&D・ノースアメリカ=HRA)を設立。
さらに、1985年5月にはHAMの敷地内にEGの支社を開設し、1988年4月にEGAとして現地法人化を図った。
HAMでは1986年7月、アコードに続きシビックの生産がスタート。1989年12月には、HAMの4輪車第2工場(イースト・リバティ・プラント)が稼動した。
1987年9月、Hondaは北米における企業活動のさらなる充実に向けて、アメリカにおける開発・生産体制の拡充と輸出計画など5つの戦略(ファイブパート・ストラテジー)を発表。60%に達していた部品の現調率を、1991年までに75%に引き上げることなどを目標として掲げた。
現在HAMは、2輪・4輪を含めた年間約69万5000台の完成車とエンジン89万5000基を生産するHonda最大の生産拠点に成長。1万人を超えるアソシエイトたちがその生産活動を支えている。そして、HAMで生産している完成車・エンジン部品の現調率は9割を超えるまでになっている。
1997年には、北米専用モデルとしてHRAで開発されたアコードがHAMで生産された。それは、北米における自立した開発・生産・販売体制の連携活動の成果であり、名実共にアメリカ製アコードとして、好評をもってアメリカ市場に受け入れられた。