自動車王国アメリカに生産基地を築く
1980年12月、HAM4輪車工場の建設工事が着工された。Hondaはアメリカ社会に根付いた工場をつくることを示すため、現地の生産設備を積極的に導入するとともに、アメリカの鋼板、プラスチック、塗料などの原材料を使用して、クルマを製造することを基本方針とした。このことは当時、日米の品質規格レベルの違いを考えると大きなリスクが想定され、チャレンジングなことであった。
現地では工事が本格化するに伴い、
——Hondaは本当に日本製に劣らないクルマをアメリカでつくれるのか——
と危惧する人も多かった。HAM製のアコードは、品質が劣っているというイメージを一度持たれてしまったら、それを拭い去ることは難しい。それだけに品質面での失敗は許されなかった。
4輪車の生産面でのフォロー体制としては、日本では埼玉製作所・狭山工場がマザー工場となり、日米どちらかの事業所で生産をカバーできる相互補完体制が敷かれるとともに、原材料や、部品の仕様などについては、技術研究所からも大幅な支援が行われたのである。
また、4輪車の立ち上げに向けて、アメリカサイドでは早野宏(HAM副社長)が4輪車工場の立ち上げを指揮し、日本サイドでは溝口健(埼玉製作所長)の指揮の下に立ち上げ支援が行われた。
「狭山からは、1番のエキスパートやベテラン勢300人くらいを優先して、HAMへ応援に行かせました」(溝口)。
現場では、量産確認も急ピッチで行われ、発生した不具合は納入先のメーカーの協力を得て修正が加えられた。日本からの駐在員は、使い慣れないアメリカ調達の設備を使って、品質を維持するために現地メーカーと協力し、量産に向けて支障となる生産技術上の課題を改善していった。
さらに、4輪車の立ち上げでは、2輪車生産を経験したアソシエイトの中から、多くの人が4輪車工場へ異動。新規採用のアソシエイトたちの中核となってリーダーシップを発揮し、スムーズな立ち上げにつなげていった。
1982年11月1日、アコードの第1号車がラインオフした。生産は品質最優先で行われ、徐々に生産台数を増加させ、本格生産への軌道に乗せていった。
4輪車生産は操業を開始して1年半後には、2直体制・日産600台のフル生産体制に入った。その後、4輪車工場には第2ラインが新設され、1986年4月より操業を開始。HAMの4輪車生産は年産30万台体制に移行。生産された製品は、日本をはじめ世界各地に輸出されるようになった。
1982年11月1日、アコードの第1号車がラインオフ。右はあいさつを行う河島。日本の自動車メーカー初の米国現地生産車である同車は、要請を受け、フォード自動車博物館内に展示されている
「『果たしてHondaはアメリカでいいクルマがつくれるのか』と、不安視する見方を、むしろバネにして、品質確保を最終目標に置き、明るく、安全で、働きやすい工場づくりを目指してきました。その過程では、多くの日本人駐在員や出張者が、アソシエイトたちにHondaの考えや技術を教え込むなど、素晴らしい力を発揮してくれました。ある時、日本で河島さんが『オハイオはHondaの生命線だ』と話されたと伝え聞きましたが、その言葉は、どんな困難や苦労があっても目的をやり遂げようとするわれわれの気持ちを、奮い立たせてくれる原動力となりましたね」(中川)。
「アメリカ市場で失敗したら、Hondaは最大の市場を失うことになり、大変なことになってしまう。そういう意味で、それはHondaの生命線であると思っていました」(河島)。