自動車王国アメリカに生産基地を築く
1979年6月、OPEC総会で基準原油価格が大幅に引き上げられたことに端を発した第2次石油危機は、世界的な省エネルギー化に拍車をかけるものとなった。とりわけ大型車が中心であったアメリカ市場では、燃費が良いクルマに人気が集まっていった。
1980年1月、HondaはHAMの2輪車工場の隣接地に4輪車工場を建設し、日本の自動車メーカーとして初めて、アメリカで乗用車を現地生産する計画を発表。その内容は、新たに2億5000万ドル(当時の換算レートで約500億円)の投資を行い、年産約15万台の生産能力を持つ工場を建設。さらに、新たに約2000人の従業員を採用し、2年後を目標に生産活動を開始するというものであった。
この発表は、それまで拡大の一途をたどってきた日本製自動車の対米輸出が日米貿易摩擦問題の中心に位置付けられている状況下に一陣の涼風を吹き込み、日米両国の政府関係者からも歓迎の意が表明された。
またHondaが、このような貿易摩擦が生じる前から自主的にアメリカでの乗用車の現地生産を計画し、実行に移そうとしていた点に対して、マスコミ関係者をはじめ多くの人たちからの評価も高まったのである。
EGではHAMでの4輪車生産の規模(1ラインで日産600台)を想定して、工程を大幅に集約化した溶接機を開発。鋼板などをアメリカから取り寄せてトライをするなど、確認作業を進めていったのである。
アメリカでの4輪車生産の計画が具体化される一方で、1979年12月には、Hondaはイギリスの自動車メーカー・ブリティッシュ・レイランド(BL)社と技術提携を結び、欧州における4輪車生産の第一歩を踏み出していった。ここで得た4輪車用の生産設備や、エンジン、トランスミッションなどを海外に輸送するための経験は、HAMでの2輪車の生産で培った物流面でのノウハウと併せて、HAMにおける4輪車生産に向けた戦略に活かされていった。
このようにHondaは、HAMでの4輪車生産に向けた準備を着々と進めることで、
——アメリカでもやれる——
という自信を深めていったのである。