自動車王国アメリカに生産基地を築く
1970年代に入り、Hondaを取り巻く内外の諸情勢は大きく揺れ動き、変化しようとしていた。
1960年代半ば以降、工業化やモータリゼーションの進展などにより、大気汚染が社会問題として深刻化。アメリカで制定されたクリーン・エア・アクト(大気清浄法)は、1970年にマスキー法として改正され、自動車の排出ガス規制はより厳しさを増した。それは、日本の環境行政にも影響を及ぼし、国内の自動車排出ガス規制もさらに強化された。
HAMメアリスビル工場全景。前方の建物が1979年9月に操業を開始した2輪車工場。後方が4輪車工場
各自動車メーカーは、その早急な対応を求められるようになり、社長の本田宗一郎は、
「これで、われわれ後発の自動車メーカーも同じスタートラインにつくことができた」
と、技術研究所員の奮起を促すと共に、全従業員にも、今がチャンスであると、ホンダ社報などを通じて自らの考えを述べた。
1971年8月、アメリカ政府はドル防衛政策を発表。円の変動相場制への移行による円の実質切り上げが進行し、日本の株式市場は暴落に見舞われるという事態となった。
これは、売上高に占める輸出比率が6割に達し、その中でも対米輸出依存度が高いHondaにとって、大きな衝撃であった。
藤澤武夫(当時、副社長)は、
「新しい発想でこれからの生き方を考えないと、この先も外圧によるショックを繰り返すことになる。(中略)技術導入、大量生産、合理化での輸出急増というパターンはすでにカベにぶつかった。何かもっと個性のあるやり方を考えねばならない」
と、1971年9月7日付の日本経済新聞の紙面にて、自らの意見を述べた。
1972年4月、専務の河島喜好の提唱により、激変する諸情勢にも柔軟に対応できる企業体質づくりを目指そうと、ニュー・ホンダ・プラン(NHP)が全社的規模で活動を開始。『生産の世界戦略』は、その企業プロジェクトの一つとして検討・推進された。
1973年10月、その河島が、創業者の本田・藤澤からバトンを受け継いで社長に就任。その矢先に、またもや世界経済を根底から揺るがすような出来事が起きた。第4次中東戦争に端を発した第1次石油危機である。この石油危機は、各企業を直撃したばかりか、全世界の人たちに、将来に向けての深刻な問題を投げ掛けた。特に、石油資源をほぼ100%輸入に頼り、高度経済成長の波に乗り続けてきた日本経済は、まさに鉄槌(てっつい)が振り降ろされるような衝撃を受けたのである。
それは、Hondaにおいて、諸情勢の変化に左右されずに、安定して商品を供給できる体制づくりを早急に推し進め、生産拠点の分散、一層の国際化という考えが根付く契機となった。
特に、『買って喜び、売って喜び、つくって喜ぶ』というHondaの理念の中には、需要のある所で生産することで、その地域の雇用の機会を拡大し、税金を納めることで地域の社会・経済活動への貢献につながるという考えがある。この理念に基づいて、どの地域に、どのような活動を通じて活路を求めていくべきか。
その対応として、NHPの『生産の世界戦略』の企業プロジェクト活動は、先進国、特にHondaの最大市場・アメリカにおける2輪車の現地生産実現の可能性を取り上げることに発展していったのである。
1974年秋、河島の指示により、フィジビリティー・スタディー(実現可能性の調査・分析)が実施されることになった。現地生産工場の視察や、輸入完成車と現地生産車とのコスト比較などの検討が重ねられた。が、日本製完成車と同等の品質がアメリカでの生産で確保できるかは、採算性と並んで大きな課題であった。
「よし、分かった。この件はいったん私が預かることにしよう。ただし、調査データは、必要な時にいつでも取り出せるようにしておくこと」。
河島は、アメリカにおける2輪車現地生産を見送ることとし、NHPの検討プロジェクトも解散された。だが、アメリカに生産基地を設けて現地生産を行うことは、河島の構想から離れてはいなかった。
——いつまでも、輸出の一方通行が続くわけはないんだ。利益ばかりを追求していては、いつまでたっても決断はできない——。
河島は着々と決断のタイミングを計っていた。