ファミリーバイクの先駆け
開発に当たっては、まず全体イメージとして、エンジンを感じさせないデザインにこだわり、エンジンを中央に持ってきて、一見、自転車に見えるシルエットにまとめた。重量は女性が持ち上げられる範囲の25kg、価格は自転車2台分の5万円を目標とした。エンジンは重量やトルクを考えて、シンプルな2サイクルを、あえて採用した。2サイクルを嫌っていたおやじさん(本田宗一郎のこと)には、内緒で進めてしまった。
問題は始動方法であった。キックは女性には絶対に受け入れられない。セルモーターを使いたくてもコスト面で当然、無理。そこで、圧縮空気の応用、シート着席時の体重移動の利用、さらには火薬カートリッジ方式など、さまざまな試みがなされた。最終的には、後輪の逆回転でゼンマイを巻き、それを解除する力でエンジンを回す、『ウッドペッカー方式』を採用した。バイクを後ろへ移動させて始動させる動作が、キツツキの動きと似ていることからの命名であった。
しかし、この方法は評価会(1974年1月)の際、たまたま雪が積もってスリップして巻き上がらず、失敗。結局、ペダルを踏み込んでゼンマイを巻き上げる方式に変更した。
1974年4月、試作車を使い研究所従業員の奥さんたち15人を集めての試乗会を試みた。スロットルを開け過ぎて垣根に突っ込んでしまうという出来事などがあったものの、評価は良好で
「面白い」
「これ、いいわよ」
といった興奮気味の反応が大勢を占めた。後藤たちは、
「自分の手で動かすという、2輪の素晴しさに対する感覚は女性も変わらない。ただ知らなかっただけなのだ」
という、確かな手応えを感じた。
時を同じくして、開発システムの見直しに基づいたS・E・Dフローシステムがスタートした。開発時点から営業(S)、生産(E)、開発(D)の各部門が加わって、三者一丸となっての推進が初めて実践された。このやり方について、神山は言う。
「データの裏付けと、評価者を納得させるだけの実証が必要なため、時間がかかって、初めは戸惑うこともあった」。
営業部門も初期段階から加わって、商品イメージの構築とともに販促活動に取り組んだ。効果を最大限に発揮するために、イタリアの大物女優であるソフィア・ローレンを使った画期的なコマーシャルを打つことにした。
D開発スタート時点での目標は、年間36万台(初年度12万台)を売ろうという
「半端じゃない」(神山)
数字だった。コストも5万から5万5000円の販売価格で、利益10%という厳しいものだった。この要件を満たすために、結局、4次にわたる量産設計のやり直しをすることになった。
目標達成のために、エンジン、車体の各部門を集め、部品ごとに目標を決めて、その目標達成まではOKを出さないことにした。
「練馬の旅館に幾日も泊り込んで、資材と工場と設計の担当者の間で、とことんやり合った」(神山)。
目標をクリアするには、部品点数を切り詰め、カブの重量の6割ぐらいで設計していかないと不可能という状況の中で、徹底的に部品点数を減らすことを目指した。キーポイントの一つはユニットスイング方式の採用。エンジン、リアフォーク、ホイールを一体化することで、シンプルな構造となった。フレーム構造も極限まで簡略化し、できるだけ少ない部品で構成した。
フレームの設計図は自転車を思わせるような設計レイアウトになっている
開発段階のスケッチ。右のスケッチで開発がスタートし、フレーム構想により左のスケッチに決定した
フレーム構想を採用したファーストモックアップ
自動巻機構図
これでも、まだまだ目標に届かず思い悩んでいた時、EGの生産技術部門が『炉中ろう付け方式』を提案した。これは、何百度という還元炉の中のコンベヤーにフレーム部品を乗せて流せば、全部、ろう付けされて出てくるというもので、サビも取れて、そのまま塗装に回せるといったアイデアであった。この方式で溶接コストの大幅な節減ができた。
この新しい方法はガソリンとオイルのタンクの一体化にも応用され、それはキャリアの下に収められた。電装部品も発泡スチロールを使い、シートの下に収納するなど、数々の徹底的な合理設計を実現した。