Hondaの将来を見据えた、二人そろっての爽やかな退任
1973年3月、藤澤は、
「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」
と西田に命じた。
本田はちょうど中国へ海外出張中だった。藤澤のこうした意向は、正式に本田と相談をした結果のものではなかった。西田は、羽田空港で本田の帰国を待ち、その場で藤澤の辞意を伝えた。
本田にとっては予期しないことだったが、しばらく考えてから本田も、
「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
と、西田に告げたのだった。
西田からの報告を受けた藤澤は、本田との長い付き合いの中で初めての大きな誤りをした、と感じた。本田に、ゆっくりと考えてもらう時間が必要だろうと考えてのことだったが、やはり最初に、なぜ、本田に直接、自分が職を辞したいという意向があることを相談しなかったのかと……。
「本田さんは、社長交代の時、私に『おい、おれたち、辞めることになったんだからな。次の社長を頼む』と、おっしゃっただけでした。ご自身も、水冷・空冷論争でのことや、技術研究所の社長を退かれたことで、この時が来ると、ある程度は覚悟されていたのだと思います。藤澤さんが辞めると聞いて、同じ創業者である藤澤さんだけを辞めさせておいて、自分だけが残れるはずがない、と瞬時に引き際がいつかを考える。本田さんは、そんな素晴らしい方でした」(河島)。
こうして、本田宗一郎と藤澤武夫の、創業期からの2人3脚は終わったのである。
Hondaの両トップ交代劇は、2人が世間一般では、まだまだ現役として十分活躍できる年齢(本田が65歳、藤澤が61歳)だったこと、加えて、次期社長に内定した河島の年齢が、45歳という異例の若さだったことでも、大きな反響を呼んだ。しかも、2人にとっては全く血縁関係にない、新社長の誕生。Hondaが同族会社ではないということを、身をもって内外に示したのである。
ところが、社内では、河島が4専務の中心的な役割を果たし、全社プロジェクトであるNHPを、強力なリーダーシップの下に推進してきたこと、さらには他の専務たちが、それまでと同じくバックアップしていくことがはっきりしていたので、さほどの混乱も見られなかった。
退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の『退陣のごあいさつ』の中で、次のように触れている。
——ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
「まあまあだな」
と言われた。
「そう、まあまあさ」
と答えた。
「幸せだったな」
と言われた。
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
と言った私に、
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
とのことで引退の話は終わりました——。
創立25年目の1973年10月、本田・藤澤の両トップは株主総会を経て、2人そろって正式に退任。終生の最高顧問に就任した。
河島が社長に就任した1カ月後、日本を第1次石油危機が襲った。それ以来、物価の高騰が続く中にあって、1974年1月末に河島新体制は、『Honda車は値上せず』という施策を打ち出し、この難局を乗り切った。
若い後継者を育て、早く道を譲る。こうしたHonda流のトップ人事は、激動の時代に立ち向かう大きな力となった。河島も、
「社長になった時に、真先に考えたことの一つに、"引き際の潔さ"をHondaの美風として残したいということだった」
と、きっぱり言い切る。
河島自身も、久米を後継者として選び、道を譲ったのは55歳の時であった。