Hondaの将来を見据えた、二人そろっての爽やかな退任
1971年8月、日本中がパニックとなった。それまで360円に固定されていたドルの価格が、変動相場制によって、突然、308円になったからだ。いわゆるドルショックである。
本田は当時、
「何で為替が変わるんだ。どうして1ドルが360円じゃないんだ」
と困惑していた。
「もう、われわれには付いていけないよ」
と、冗談ともつかない本音が、本田と藤澤の口を突いて出るようになっていたのだった。
この時期になると、ドルショックに代表されるような時代の変化は、さらにその厳しさを増していた。Hondaにも、多少、大企業病的な症状が表れ、企業としてのフレキシビリティーを欠く部分も出てきていた。それだけに、一つの問題が、今まで以上に大きな影響を会社全体に及ぼしかねない状況にあった。
藤澤は早くから、こうした危機感を抱いていた。しかも、いつまでも2人のトップが存在し続けるわけでもない。
藤澤は河島に、
「おれも本田さんも、いつまでもいるわけじゃない。その後、どうするつもりだよ」
と言った。河島は、
——ドブに落ちて這い上がるのが、いくらうまくてもだめで、これからは、ドブに落ちる前に避けて通る企業にならなくては——
と考えた。
「私は、それには時代の変化に即応できるフレキシブルな体質を築き上げなくてはならないと、当時、新たな施策の展開を模索していました」(河島)。
当然、問題が起こらないように未然に防ぐことが重要だったが、それは、Hondaが最も苦手とするところだった。
Hondaの企業体質を抜本的に見直し、全社的規模での改革運動を導入することが、4専務を中心とした役員室で決定されたのである。同運動の導入に当たっては、Hondaの個性を明確にし、Hondaらしい展開を目指すため、ニュー・ホンダ・プラン、NHPと命名された。
NHPは1972年4月、河島を全社の委員長として発足。次代を考えるプロジェクトとの理由から、30代から40代前半の若手12人が専任メンバーとして推進に当たった。そして、1973年4月には、顕在化した課題を整理。NHPは全社的に組織化された本格プロジェクトとしてスタートを切ったのである。
これは、河島を中心としたHondaが、確実に動き始めた第一歩であり、世代交代を促す大きな原動力となったのである。