Hondaの将来を見据えた、二人そろっての爽やかな退任
水冷・空冷論争の決着以降も、精力的に研究・開発に取り組んでいた本田だったが、技術研究所が分離・独立して10年近くも経ち、若手の優秀な技術者たちが多く育ってきたことから、世代交代の必要性を訴える従業員も出てきた。
ところが、本田技研と技術研究所の社長として、今なお手腕を振るう本田に、だれが、それを進言するのか。事の成り行きで、当時、総務担当役員だった西田が、その役割を担うことになった。
——河島さんは技術研究所ではおやじさん(本田のこと)の直属の部下なんだし、私が行くしかないか——。
気の重い西田だったが、たまたま技術研究所へ行く用件があり、本田のいる社長室の扉をたたいた。本田は西田を見ると、昼食を共にしようと誘った。西田は、本田と一緒にそばをすすりながら雑談をし、ころ合いを見計らってポツッと本題を切り出した。
「『もう研究所員も、どんどん育っているので、そろそろバトンタッチを考えていただけないでしょうか』と、本田さんに恐る恐る水を向けると、即座に、しかも涙をハンカチで拭いながら『良く言ってくれた』と、おっしゃったのです」(西田)。
さらに、気の早い本田は真剣な顔で
「何なら今日にでも辞めてもいいぞ」
と言い、西田を大いに困らせたのだった。
「本田さんは仕事一筋だから、専念されている時は何も見えなくなってしまうんです。普段は人事を気にすることも全くないのに、あの時は一言言っただけで、すぐ、すべてを理解して、むしろ、こちらからの提案を喜んで受けてくださった。そんな方でした」(西田)。
1971年4月、本田は本田技術研究所の社長を退いた。
本田が退いた後、西田は悩んだ。本田が冗談交じりに、
「しばらくの間、朝になって下落合の自宅を出ると、どうしてもウチの会社に向かってしまう。途中まで行って、ああ、おれはもう社長じゃないんだと思って帰って来た」
と言ったからだった。
本田にとって"ウチの会社"とは、まさしく技術研究所のことで、技術研究所がすべてだったのである。