世界のビッグメーカーに先んじた低公害エンジンの開発
これがだめだったら、4輪市場からの撤退も考えなければならないという背水の陣で開発されたシビックが、1972年7月12日に国内で発売された。同車の市場評価は高く、1973年度モーターファン誌主催のカー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。翌1973年12月13日には、4ドアのシビック・CVCC(1500cc)が発売され、シビックの名前を国内市場で不動のものとした。
シビック・CVCC第1号車(1973年12月)
米国市場へのシビック・CVCCエンジン搭載車は1975年モデルから輸出された。輸出に当たっては、EPAからマスキー法1975年規制適合認定を受けなければならなかった。Hondaは1972年にCVCCエンジン単体でマスキー法の適合審査に合格していたが、完成車としての審査は受けていなかったからである。
前年の1974年のシビック(通常のエンジン仕様)が、国内でのエミッション審査では何ら問題がなかったのに、EPAでは認定が取れなかった(後に再審査で合格した)。
1974年春、マスキー法施行初年度となるため、技術研究所ではEPA認定プロジェクトが組織された。同プロジェクトが最初に取り組んだのは、1974年モデルが認定審査で苦労した原因の追及であった。
技術研究所と鈴鹿製作所、米国EPAのアンナーバー認定ラボを含めて、なぜ日・米でこのような違いが出るのか、徹底的に比較し相関関係の調査が行われた。
その結果、気圧、シャーシダイナモ、運転状況の3つの点で違いがあることが分かった。標高差が約350mあるため、検査時の気圧の違いによる影響が出ていた。シャーシダイナモはメーカー・機種は同じだが、Hondaのシャーシダイナモは、小さなクルマの検査がしやすいように前後ローラ間のスパンが改造され、短くなっていたのである。運転状況は、米国と日本のドライバーでは、アクセル操作に大きな差があることによるものであった。
調査結果を基に、EPAの測定条件を設定し、それを、クリアできる仕様であるか否かを確認し、量産車への反映を確認していった。
1974年11月、シビック・CVCC1975年モデルがEPAに持ち込まれた。
「テストが終わり、コンピュータが計算をして、その結果が出てくるまでは、大学の入試発表を待つような気分でした」
と、EPAプロジェクトで認定担当だった福井威夫は語る。
審査終了後、EPAの検査官は
「コングラチュレーション」
と、握手を求めてきた。
溝口や福井は無事に認定が取れただけで喜んでいたが、EPAの検査官は燃費が1番であると伝えたのである。
「われわれはエミッションばかりに気を取られていて、燃費のことは全く考えていなかった。しかし彼ら(EPA)にとっては、エミッションは当たり前で、将来を考えたら燃費だということだったんですね」(福井)。
シビック・CVCCは年を追うごとに燃費が向上し、1978年モデルまでの4年連続で、米国での燃費1位を獲得。『シビックの良さは燃費』、ということが米国のお客さまの間で定着していった。また、燃料を選ばない低公害車ということでも評価を受けた。
1975年、マスキー法が実施された。他社メーカーのクルマは酸化触媒装置を装着しているため、無鉛ガソリンしか入れられなかった。鉛が酸化触媒装置に影響を与え、その機能を低下させるからである。
福井はEPAの型式認定が終わり、燃費テストのためレンタカーを借りて、カリフォルニアからネバダに向かった。クルマは最新型のフォード車で、途中でガソリンを補給しようとスタンドに寄ったところ、給油してくれなかった。
「そのスタンドには無鉛ガソリンが置いてなかったんです。『砂漠でガス欠になりますから入れてください』と、スタンドのおやじさんに頼みましたが、『罰金を取られるから駄目』の一言でした。次のガソリンスタンドに幸いにして、無鉛ガソリンがありましたから助かりました」(福井)
というようなトラブルが、全米で起こった。
罰金の他にも有鉛ガソリンの混入を避けるための対応がなされていた。酸化触媒装置を装着した無鉛ガソリン専用車にはクルマの給油口を小さくさせ、ガソリンスタンドには無鉛ガソリンの給油ノズルを細くしたものを使用させていた。しかし、無鉛ガソリンの製造が間に合わなくて、当初は、ごく一部のスタンドでしか給油できなかったのである。