軽自動車業界の地図を塗り替える
当時米国では、弁護士のラルフ・ネーダー氏が、自動車安全センター(Center for Auto Safety)と名付けられた組織をつくり、自動車の安全性に焦点を当てて、組織的かつ活発な消費者運動を展開していた。
日本でもその影響を受けて、1970年5月に日本自動車ユーザーユニオンという消費者組織がつくられ、一部マスコミによるキャンペーン活動とともに、自動車メーカーへの批判が、ますます強まっていく風潮をみせた。
特に、軽自動車市場で圧倒的な人気と売り上げ台数を誇っていたN360が取り上げられ、同年8月18日、N360が関係する別の死亡交通事故とクルマの欠陥性との因果関係を巡り、遺族に代わって消費者組織が本田を東京地検特捜部へ告訴するに至った。この捜査への対応は、技術研究所とサービス部が中心となって行った。
開発責任者であった中島は、原因調査のため東京地検からの呼び出しがあった時、本田から言われた一言が、今でも耳に残っていると言う。
「難関にぶつかった時こそ、その問題を注視して、真正面からとらえろよ!」。
その言葉を心の頼りに、東京地検特捜部への書類提出や事情聴取では、N360の設計思想、開発から発売に至るまでの過程について、真摯に答えた。
東京地検特捜部は、N360の欠陥性と交通事故との因果関係についての鑑定を、運輸省交通安全公害研究所(所長・副島海夫)と東京大学生産技術研究所・亘理厚教授に依頼。翌1971年7月、鑑定内容が提出された。その内容については、捜査上の証拠であるため詳細は公表されていないが、当時の新聞によると、事故と車体の欠陥性との因果関係を強く結び付けるものはないという報道であった。鑑定内容も証拠の一部となり、東京地検特捜部の捜査は同年8月に終了し、不起訴処分という決定がなされた。
しかし、消費者組織からの執拗な攻撃は止まらなかった。別の交通死亡事故に対しても、N360の欠陥性によるものではないかという申し出が、消費者組織から直接あった。消費者運動が高まりを見せる中、Hondaは交通機関に携わる企業としての社会的責任を考え、被害者家族への見舞金として8000万円を支払うことで和解に至った。が、その後、この和解に便乗するかのように、消費者組織は、その他のN360が関係した交通事故・数十件を持ち出して、常識を逸脱した巨額な賠償要求を迫ってきた。
このような消費者組織からの巨額な要求、4輪販売の急速な落ち込み、そして、企業イメージの低下という大きなダメージに直面し、企業そのものの存続の危機を強く感じた役員室では、先の和解を含めて事件の解決を第3者に委ねるという苦渋の判断を下したのである。Hondaは、同年11月1日に東京地検特捜部に対し、消費者組織の代表者2人を告訴した。
この捜査段階で、消費者組織がHondaを含めた自動車会社数社を恐喝していた容疑が判明したのであった。
裁判は、1977年8月の第1審判決で被告に対し、それぞれ懲役3年と2年の実刑判決が出されたが、1982年6月の控訴審(第2審)では、消費者運動には寄与したものの、今回の活動では勇み足があったとして、執行猶予付き大幅減刑の判決となった。そして最終的には、1987年1月、無罪を求めた被告からの上告は、最高裁により棄却され、第2審通りの有罪が決定したのである。
この事件でN360の販売面で受けた打撃は大きく、Nシリーズは軽自動車販売のトップの座から落ち、市場占有率も急速に下がり始めた。
しかし、それはHondaのNシリーズという軽自動車だけにとどまらず、日本の軽自動車業界へも影響し、軽自動車市場全体が次第に衰退していくこととなった。