モータースポーツの夜明け
コースレイアウトの原案は1960年8月に完成した。ヘアピンカーブ2カ所、立体交差が3カ所と変化に富んだ内容であったが、工費などの面で見直しが必要となった。同年12月にプロジェクトメンバーがヨーロッパに飛び、設備、競技規則、運営方法を視察・調査し、レイアウトなどが最終決定された。メンバーはこの視察の際に、コースやアウトバーンの路面を靴ベラではがして持ち帰った。これらは貴重な技術資料となった。大きな技術的課題となっていたアスファルト舗装技術に見通しを付ける足掛かりとなったのである。
当時、コース舗装を請け負った日本鋪道では、オーバルテストコースの工事経験はあったものの、ロードコースの表面舗装は経験がなかった。視察時にメンバーが持ち帰った路面材料を分析しながら、各地の川砂を研究。木曾川の雑岩を中心としたものに決定したが、その集積に約6カ月を費やした。
工事に当たっては、図面も十分なものではなく、現地で仕様が決められ、後から図面が出来上がるということが幾度となく繰り返された。立体交差の工事は、特にコースの平坦度が要求される所でもあり、新工法を駆使して技術的難関を突破した。
グランドスタンド付近の建設風景〔写真提供 塩崎定夫氏〕
当時は、名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態であり、その工事関係者が鈴鹿に見学にくるほどの注目を浴びたものであった。
本田は完成間近のころ、飛行機で鈴鹿上空を飛び、
「図面のイメージに近いものができているな」
と語った。この一言で、工事関係者一同の苦労は報われた。
1962年9月20日、鈴鹿サーキットは竣工式を迎えたのである。