Hondaの4輪進出への道をつくったクルマ
法案成立までに4輪車の生産実績をつくる必要に迫られ、1962年1月に、急きょ、4輪車の製作指示が技術研究所に出された。
製作車両を、同年に開催される第11回全国ホンダ会総会(通称、ホンダ会)に4輪プロトタイプとして発表することとし、製作機種は、軽4輪スポーツカー2台・軽4輪トラック2台という内容であった。
完成目標は、当初、4月15日としたが、当時、建設途中であった鈴鹿サーキットのお披露目に合わせて、新製品の展示・試走会を行うことになり、6月5日に建設途中の鈴鹿サーキットで開催することが決定。
「第3研究課の設計部隊は、当初の7人から1961年ごろには、やっと15人ぐらいになっていたと思います。造形室の4輪担当は、私1人から3人になっていましたが、2機種を同時開発することとなり、急きょ、6人体制を採って、軽トラックチームを新設し、2グループに分けて推進しました」
と、当時のデザイン担当・河村雅夫は言う。車体は、試作研究をしていたXA190と3XA120を基に、発表に向けてプロトタイプとして仕上げていったが、本田の細部にまでわたる指示を反映しながらの製作となり、苦労の連続であった。
エンジンはそれまでテストしていた空冷方式に限界を感じ、水冷方式直列4気筒・DOHCエンジンXA250を進めていた。このエンジンを基盤として、2機種のボディー形状と使用用途の違いから、開発記号を軽スポーツカーはAS250、軽トラックはAK250と称し、2種類のエンジン製作が開始された。
河村は本田に、開発指令の出されるきっかけとなったスポーツカーのダミーモデルを見せるに当たり、赤に近いオレンジ色を塗って見せた。小さなクルマを、できるだけ目立たせるためであった。それを見た本田が、
「こんどのクルマは赤でいくぞ!もっと赤い方がいい」
と言った。そのため、後日、スカーレット(深紅色)に塗り替えて提示したところ、本田は非常に気に入って喜んだ。当時は、国内販売される自動車の車体色に、緊急自動車(消防車・救急車など)と紛らわしい赤や白を使うことが、法律で規制されていた。赤色の使用許可を受けるために、当時、技術研究所で開発管理課長をしていた秋田貢は、幾度となく運輸省へ通った。
「取り付く島もないといった感じで、担当官は『Hondaは知っているが、本田技術研究所などという会社は聞いたことがない』などとやられる始末でした。技術研究所に帰る足取りも重く、本田さんと顔を合わせるのがつらかった。しばらくそんな時期が続き、本田さんも朝日新聞のコラム欄などを通して、『赤はデザインの基本となるものだ。それを法律で禁止するとは。世界の一流国で国家が色を独占している例など聞いたことがない!』と、ご自分の考えをアピールしていました」(秋田)。
ようやく許可が下り、秋田が喜んで本田に報告に行くと、
「おう、そうか」
の一言だけであった。
「車体色としての赤色の許可については、Honda1社だけが孤軍奮闘しましたが、以降、他社の市販4輪車にも赤いクルマが多く見受けられるようになりました」(秋田)。
発表会前日まで、人海戦術での仕上げが研究所で行われ、最後のタッチアップを鈴鹿地区の倉庫の一角で行った。完成は6月4日の深夜となった。
実質4カ月半という、非常に短期間で厳しい日程であった。
「当時は、無理難題を若さと体力で切り抜けました」(河村)。