未知の市場開拓に挑む
「国内はとりあえず固まった。いずれは世界一にチャレンジしなきゃいけない。従って、おまえさん、ちょっと海外の市場を観てきてくれ」。
藤澤武夫(当時、専務)は、川島喜八郎(当時、本社営業課長)に、東南アジアでの市場調査を命じた。
設立間もないころのアメリカン・ホンダ
創業後わずか7年あまりで、国内2輪業界におけるトップメーカーとしての基盤を固めつつあったHondaは、本格的に海外市場への輸出拡大を模索。Hondaの営業政策の中心は、これまでの国内販売の充実から、ドリーム(250cc・350cc)やベンリイ(125cc)を主力商品とする海外輸出にシフトされつつあった。
Hondaはサンプル車の輸出を手掛ける一方、
「商社を頼らずに、まずは自ら現地のマーケットを観て、そのマーケットにふさわしい商売の仕方があるはずだ」(藤澤)
と、1956年の暮れから翌新春にかけて、ヨーロッパと東南アジアで市場調査を実施。ヨーロッパへは本田宗一郎と藤澤が、東南アジアへは川島が赴いた。
東南アジアでは、ヨーロッパから輸入されたオートバイやモペットが少しずつ走り始めていた。大衆の交通手段は自転車からオートバイへの移行期にあり、近い将来には、経済成長とともに、さらなる普及が見込まれた。
3週間あまりの調査を終えて帰国した川島は、東南アジアが有望な市場であることを藤澤に報告。すると藤澤は、
「今度は、アメリカを観てきてくれ」
と、川島にアメリカでの市場調査を命じた。
川島の目に映ったアメリカは、まさに自動車の国だった。鉄道網が充実していない広大な国土を移動する手段として、自動車は絶対欠かせない存在である一方、オートバイは、レースやレジャーの場での遊び道具として、自動車の付属品的な位置付けだった。
「オートバイというのは、生活のためのトランスポーテーションであって、その間に遊びも入るという程度で、生活を主体にしたオートバイというのを僕は考えていた。従って、アメリカというのはオートバイの国ではない、というのが僕の実感でしたね」(川島)。
アメリカでの市場調査を終えて帰国した川島は、藤澤に
「手始めとしては、アメリカよりも東南アジアの方が手掛けやすいのではないか」
と提案した。
しかし、しばらくして藤澤は、
「やっぱり、アメリカをやろう」
と言い出した。
「資本主義の牙城(がじょう)・世界経済の中心であるアメリカで商売が成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカでヒットしないような商品では、世界に通用するような国際商品にはなり得ない」
というのが藤澤の持論で、
「アメリカでチャレンジすることは、われわれにとって1番難しいことかも知れないけれども、これは輸出拡大に向けての1番大事なステップである」
と主張した。