本田宗一郎は、「いい品質の製品を、たくさん、安くつくりたい」という夢を持っていた。
Hondaの生産技術は、この夢の具現化に向けた最適な生産方法の探求に始まる。
それは、自らの意志の入った機械づくりからスタートし、つくりの本質を追求していく中で、素材から高品質な製品をつくり出す技術、一度の装着で多くの加工を行い工程の集約化を図る短いライン編成、そして、生産効率とフレキシビリティの両立を狙った生産システムなど、Hondaの生産競争力を高める独自の生産技術を生み出しながら、大きく発展してきたのである。
1962年6月、全国ホンダ会の会員に軽4輪スポーツカー・S360と軽トラック・T360を公開。同年9月には、埼玉製作所・白子工場にある工機部門を独立させ、新たに工機製作所が発足した。
1964年5月、Hondaは埼玉県の川越・狭山工業団地に、4輪車の専用工場となる狭山製作所の建設を開始。これに伴って、同年11月、工機製作所は狭山に移転し、狭山製作所・工機工場として発足。同時期には全社のプレス金型製作部門を集約・拡充し、狭山製作所・金型工場が発足した。
1967年、狭山製作所・N特別計画室溶接チームの構想に基づいて、工機工場は総合ボディー溶接機(GW)を開発。この溶接機はその形から軍艦GWと呼ばれた。
1969年、HONDA1300のボディー溶接システムとしてスライドGWが開発され、鈴鹿製作所に設置された。翌年には狭山製作所に溶接専用治具の自動チェンジ機構を備えたスライドGWが導入され、両製作所で同機種を流すことが可能となった。
1969年5月のHONDA 1300生産開始に向けて、鈴鹿製作所に設置されたスライドGW(1998年2月撮影)
1970年9月1日、狭山製作所第2工場を独立させてホンダ工機(株)を設立。同社は独立を契機に、Hondaの生産段取り部門として、常に革新的な生産技法を生み出す役割を担っていくことになった。
1971年9月1日、狭山製作所第2工場の造型、設計、金型などを中心とした段取り部門と、PGを統合して車体技術工場(BE)が発足した。
1974年7月1日、Hondaは生産技術・段取り部門の結集による拡充・強化を図るため、ホンダ工機(株)と生産技術部(車体、加工、塑形の各技術室)を統合し、ホンダエンジニアリング(株)(EG)を設立した。
1979年1月、冷間鍛造技術を活かした独自の等速ジョイントSBJ・EGIを開発し、Hondaの4輪生産に必要となる全数が内製化された。
1980年7月、4輪ボディー溶接の新システムであるSMGWを開発し、鈴鹿のNo.2ラインに設置した。さらに、年末には英国BL社にホワイトボディー生産システムを技術供与した。
1981年12月、EGで開発を進めてきたモジュールトランスファーマシンシステムは、浜松製作所の大型2輪ラインのエンジン加工設備として立ち上がった。
1982年11月、HAMにプレス金型と溶接ラインの最新設備を設置。米国での4輪生産第1号車・アコードセダンがラインオフした。
1988年5月、鈴鹿製作所において、塗装工程を大幅に集約した高効率塗装ラインシステムが稼働した。
1984年8月、EGは生産技術開発力の強化に伴い、オリジナルツールの内製化事業拡大を図るため、研削・切削ツールの専門工場として、EG川越工場を発足した。
1990年9月、EGの機能拡充と、さらなる飛躍を目指し、栃木技術センター(EG-T)を設立した。
1985年5月、EGの出先機関として米国支店を設置。北米生産拠点の量産設備の安定稼働を目的として、設備の改善・改良を含めたエンジニアリング活動をスタートした。同支店は1988年4月に、EGA(HONDA ENGINEERING NORTHAMERICA,INC)として現地法人化された。
1988年5月、Hondaのアジア地域における本格的な生産体制の実現に向けて、タイ・ツーリングオフィス(EG-B)を設立した。
1988年10月、EGの出先機関として、Hondaの欧州における量産工場の安定稼働を目的に、設備改善などを中心に活動するユーロオフィスを設置。同オフィスは1990年5月に、EGE(HONDA ENGINEERING EUROPE Ltd.)として現地法人化された。