失ったものの大きさ

ポール・フレール(以下PFと略す)は1917年にベルギーの裕福な実業家の家庭に生まれ、幼児から車と共に育った。

ブリュッセルの大学で経営学を学んだのち、職業として自動車ジャーナリズムを選ぶ。学生時代からあらゆるスポーツに堪能で、特にスカル(一人漕ぎ競争用ボート)ではナショナル・チャンピオンを獲得した。
1950年ころから1960年まで、2輪と4輪車双方のレースに、アマチュアとして専念する。最初の本格的なレースは1948年のスパ24時間で、1936年式MG PBによりクラス4位でフィニッシュした。
F1には総計11戦出場し、クーパーF2で出た1956年南アフリカGPに優勝している。だがPFが最も頭角を現したのは、ル・マンやミッレ・ミリアのような長距離耐久レースだった。
例えば1953年ミッレ・ミリアには、クライスラー・サラトガ・セダンという、巨大なV8アメリカンで初めて参加し、見事クラス優勝を遂げている。PFが天性のドライバーだった証拠だろう。

後年語ったところによれば、ル・マン24時間に優勝することがいわば執念だったという。初めて参加したのは1953年で、ポルシェにより1500ccクラスで優勝している。
1957年ジャガーDタイプで4位、1958年ポルシェで4位、1959年にアストン・マーティンで2位に入賞した後、オリビエ・ジャンドビアンと組んだフェラーリ・テスタロッサにより1960年、遂に念願のル・マン優勝を果たす。
これを機会にヘルメットを脱ぎ、PFは本来の技術ジャーナリストに戻る。そして、F1ドライバー/ル・マン優勝者のみが可能な、独自の鋭いロードテスト・リポートを次々専門誌に発表し、世界中の読者を啓蒙した。同時に、多くの自動車メーカーに強い影響を与え、社会的に正しく安全な乗用車設計に寄与されたのである。

F1レースを想定した鈴鹿サーキットが、本田宗一郎Honda社長(当時)の情熱によって完成したのは1962年後半のことだった(奇しくもカーグラフィック誌創刊と同じ年である)。
早くも翌1963年5月には、第1回日本GPが開催されている。すると、それまでレースとはまったく無縁だった日本の乗用車メーカーは突如レースに目覚め、ワークス・チームを繰り出すに至った。後年宗一郎氏が筆者に語られたところによれば、鈴鹿をつくった当面の目的は、鋭意開発中だったホンダF1(271)を国内でテストする場所の確保だったという。
PF先生とカーグラフィックが遭遇したのは、排ガス問題が一段落し、レースが再開された1966年ころである。長い話を短く約めると、PFが英国のThe Motor誌に寄稿していた新型車ロードテスト記事を、カーグラフィックにも書いてくださることになった。これがPFとカーグラフィックの、さらにいえば日本との、40年以上にわたる親密な関係の始まりである。

カーグラフィックでは1969年にPF夫妻を日本に招待し、鈴鹿サーキットで「ポール・フレール・レーシング・スクール」を2週間にわたり開催、延べ100人が受講した。
われわれカーグラフィック編集部員も全員が親しくPFの指導を受けた。PFの使用車は足回りを若干固め、ダンロップG5を履いたHonda S800だった。午前中3時間は学科で、車の基本的な操縦性などを学び、午後は実際にサーキットに出て、man to manで実戦的な指導を受けた。

この初来日は2週間に及んだが、そのほとんどをPF夫妻は鈴鹿で過ごした。毎日の昼食は寿司でなければうな重の繰り返しだったが、二人ともこれをたいへん好まれた。特にシュザンヌ夫人は和食のデリケートな味をよく理解され、帰国に際してはさまざまな材料を買って行かれた。たとえば醤油の小瓶をいつもハンドバッグに忍ばせていたほどである。

本田宗一郎社長は、鈴鹿のスクール開催中にPF夫妻と食事を共にされている。さらにすべてのスケジュール終了後、PFを同社の荒川テストコースに招き、中村良夫氏共々自ら対応された。
PFは、デビューしたばかりの強制空冷4気筒1300セダンに中村良夫氏を乗せ、130km/hで素早い操舵を敢行し、並み居る全員を驚かせた。この最初の来日が口火となって、PF夫妻は心底から日本と日本の文化が好きになられたらしい。技術ジャーナリストとしての職業意識は別として、なかでもHondaに強い関心と敬意を抱かれたようである。
特に、シビックやCR-Xの開発を通じて知り合った故木澤博司氏(昨年暮れに惜しくも亡くなられた)、NSXとS2000の開発を通じて知り合った上原 繁氏、そして川本信彦元Honda社長らと親交が深かった。
日常においてもHonda車を愛し、20数年間愛用したCR-Xは大のお気に入りで常々、「私が世界で唯一愛する前輪駆動車」といっておられた。NSXも大好きなクルマで、最後に来日されたときに「私の個人的なニュルブルクリンクのラップレコードはNSXで樹立てたものです」と、NSXの優秀性を強調されていた。

国際的に著名な自動車ジャーナリストは多いし、素晴らしく速いレーシング・ドライバーも多く存在する。だがPFのように、超一流ドライバーであると同時に、車の操縦性を最新理論によって明快に解説できる技術ジャーナリストは非情にまれである。おそらく彼が唯一の例だろう。
PFの有名な著書「Competition Driving」を読んで特に強い感銘を受けたのは、レーシング・テクニックのなかには、日常生活上の安全な運転に役立つ知識と技術が、実に多く含まれるという指摘だった。
よしっ、この本を訳出して路上の安全性向上に役立てよう。それはCG編集部としての義務だと。共訳者に選んだのは、ごく初期の日本アルペン・ラリーに組んで出場したこともある東大同期の親友、武田秀夫君である。武田君は工学部機械科卒で、第一期ホンダF1の車体設計にも携わった経歴を持つ。
こうして同書は「ハイ スピード ドライビング」のタイトルにより、1966年初夏に二玄社から翻訳出版された。以来版を重ね、二玄社の隠れたベストセラーになっている。
30年後の1992年に、PFは同書を大幅に改定・加筆して、「Sports Car and Competition Driving」という新しいタイトルで出版された。もちろん基本的な理論に変わりはないが、特に空力デバイスや電子制御四輪駆動など、最新テクノロジーに即した操縦技術が多く取り込まれている。二玄社ではさっそく新版を翻訳し、「新ハイスピード・ドライビング」と題名も改め、1993年12月に上梓して現在に至っている。

PFが語ったところによれば、「日本でたびたび体験するように、街でふつうの人から私が誰か認識されることは、世界のどこでもないことで、とても嬉しいよ」という。われわれ日本人の立場からすれば、PFの適切なアドバイスにより、日本製乗用車の全般的商品性、特にライバルひしめくヨーロッパ先進諸国市場における高速性能、乗り心地、操縦性は、次元が違うほどの改善をみたのである。深くお礼を申し上げたいのはこちらの方なのだ。
1966年に始まるPF先生のCG寄稿は、2008年4月号に掲載された「From Europe」をもって突然ピリオドを打った。PF先生、長いことありがとうございました。どうかゆっくりお休みください。
(写真提供:カーグラフィック)


最初の二輪レース。1947年ブラッセルGPに友人のトライアンフ・スピードツインで出て、標準型500ccクラスに勝った。


初めての4輪レース、1948年スパ24時間に友人の1937年MG PBスペシャルで出場、クラス3位となる。写真は雨のオールージュ。


1969年3月17日10時30分にパリを発ったボーイング707、パン・アメリカン119便は、中近東、東南アジアを経て、18時間後の翌18日10時35分、東京国際空港に着いた。シュザンヌ夫人をはさんで立つポール・フレール氏と筆者(右)。


羽田18:30発のジェット機で帰国する日の14:30まで、ポール・フレール氏は荒川テストコースで1300に乗っていた。


ポール・フレール氏ご自慢の愛車、Honda CR-X SiR。


同NSX fiestaで行われたトークショー。中央がポール・フレール氏、右がスイスHondaの元社長クロード・サージ氏、左が筆者。NSXの素晴らしさについて語り合った。このNSX fiestaで、お二方は、心ゆくまで鈴鹿でNSXの走りを楽しまれた。


2005年春、満開の桜の木下でレジェンドを前にポートレートに納まったポール・フレール氏と筆者。この日は、たいへんよい陽気のなか、箱根ターンパイクで同車のインプレッション撮影を行った。


1953年ミッレミリア。ブレーキのまったくなくなったクライスラー・サラトガで、オーバー2000ccツーリンングカーのクラスウイナーとしてフィニッシュの瞬間。


毎日午前中は3時間にわたる学科。写真はギアチェンジの適切な時期について数式を折りこんで説明しているところ。


鈴鹿のSベンドにて。ポール・フレール講師がこれからS800で模範走行するところ。ポール・フレール氏はサスペンションをかため、レーシングタイヤをはいただけのS800で、このSベンドを115km/hくらいで走り抜けた。


Hondaの荒川テストコースで1300“77”に乗るポール・フレール氏。ストレートからこのベンドへ135km/hで進入する。


JARI(日本自動車研究所)のピット前で談笑する川本氏とポール・フレール氏。


S2000試乗後、開口一番、「ステアリングとギアボックスが素晴らしい!」と語るポール・フレール氏。


NSXとS2000の開発を通じて、上原繁とも親交が深かった。写真は、2003年、2代目NSX-Rプロトタイプの試乗時のひとコマ。ツインリンクもてぎにて。


1997年のNSX fiestaのパーティにて。同じゲストとして参加したスイスHondaの社長(当時)であり友人であるサージ氏から、記念にNSXのピンバッジを贈呈されているところ。


同じくNSX fiestaのパーティ。NSXのオーナーに挨拶を行ったあとの歓談時に、ポール・フレール氏はあちこちでサインを求められた。プレゼントされたNSXクラブのブルゾンを羽織っている。

 

小林彰太郎氏について
1929年、東京生まれ。幼少の頃より自動車を熱愛し、学生時代には自動車専門誌に寄稿、自動車ジャーナリストを志す。1954年以降、日本で初めて新車ロードテストの基準を自らつくり出してテストを実施し、専門誌で発表。1962年に自動車雑誌『CAR GRAPHIC』を創刊し、1989年まで編集長を務める。現在は編集顧問。長年のジャーナリスト活動を通じて行ってきた評価と助言は、日本の自動車づくりに多大な影響を与えている。日本の自動車ジャーナリストの草分け的存在である。

 
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