失ったものの大きさ

まず、Hondaのウェブサイトのためのポール・フレール追悼文でありながら、他メーカーの話から始めなければならない非礼をお詫びする。ポール・フレールの人となりを語る上では欠かせないエピソードなのでお許しいただきたい。

私が最後にポールに会ったのは2006年の12月。昨年出版した私の著書「Ferrari, Stories from Those Who Lived the Legend」の取材で、彼に有名なフェラーリとのエピソードを語ってもらうためだった。というのは、エンツォ・フェラーリと懇意な人間は多くいたが、彼からフェラーリのワークス・ドライバーとしての誘いを断った人間が果たして何人いただろうか。その数少ないドライバーの一人がポール・フレールである。

プレス旅行の途中で立ち寄ったニース空港には、ポール・フレールと彼に20年近くも愛され続けたHonda CR-Xが迎えに来ていて、私を乗せてモナコのレストランへと軽快に走り出した。このときポールは89歳。前年の暮れの自動車事故のせいで、杖に頼ってはいたが、彼は悠々と目指すレストランへと愛車を走らせていて、なぜか嬉しくなったものだ。

いままでもそうであったように、この日のポールもお洒落で紳士的な装いであった。青いブレザーにネクタイ、少し淡い黄色のワイシャツ。ポールはいついかなる時も、“不適切な服装”をしたことがない。言うなれば、彼は、暑い日に、エアコンの効かないクルマで一日中ハードドライビングをこなした後でも、一糸乱れぬ姿で降りてきて、汗などまったくかかなかったかのように平然としていられるタイプの人間であった。したがって彼の服は、ぴしっと糊がきいていて、まるでクリーニング屋から戻ってきたてのようだった。

ランチの間に彼に“なぜ多くの人の羨むような仕事=フェラーリのワークス・ドライバー”を断ったのかについて語ってもらった。
「私はフェラーリとは相性が良かったようで、ワークスチームのフェラーリでレースをしたときは幸運にも好成績を獲得できたのです。1955年F1ベルギーGPで4位、その翌年のベルギーGPで2位、1960年にはル・マン24時間にフェラーリで出て優勝しました。あれは1962年のことだったと思います、フェラーリから呼ばれてモデナに行ったのは。その時にエンツォはいなくて、フェラーリ・スポーツ・マネージャーのタヴォーニ(Romolo Tavoni)と会って話を聞きました。フェラーリ(エンツォ)が私にテストドライバーとしてレーシングマシーンのセッティングを手伝う傍ら、スポーツカー選手権にワークス・ドライバーとして出場してほしいと言っているというのです。
「むろん、心が動かなかったかというと嘘になります。そこには抗しがたい誘惑があったのは事実です。しかし結局はその誘いを断りました。私はその時点ですでに45歳でしたし、そういうタフな仕事は長くは続かないと判断したのです。フェラーリはフェラーリです。ひょっとしたら1年でお払い箱になるかもしれません。ジャーナリストの職を離れて何年にもなっていましたし、他に生きていく当てもありませんでしたから、ノーと答えたのです」

ポールには当時、まだ学生であった3人のお嬢さんもいて、彼女たちのことも考えたのだろう。しかし、振り返ってみれば、その後いかに長い年月にわたり、彼が現役の、それもトップクラスのジャーナリスト兼卓越したドライバーとして活躍してきたかを考えれば、驚嘆に値する。そんな彼が46年も前に体力の限界のことを考えてフェラーリからの誘いを断ったというのだから愉快というか、可笑しいエピソードだ。

私が次の目的地モデナに向けて旅立たなければならない時間が迫ってきたために、ポールの追憶を聞きながら楽しんだ長ーいランチも終わりにしなければならない時が来たが、その日はなぜかサヨナラが言いづらかった。
理由は明白だった。この何十年もの間、ポール・フレールは常に壮健で、常に最良の体調を備えたスーパーマンであり続けたのだ。その彼がこの日ばかりは辛そうにみえた。こんなに脆くて頼りなげな彼を見たのは初めてだったために胸を衝かれたのだった。去りがたい気持をおさえて、最後には別れを告げたものの、あの時もっと余裕をもって計画をたてて、もう少し長く滞在すればよかったと、その後何度も何度も悔やんだものだ。
それでもポールを思い出すときにはいつも笑顔になれる。彼がエンツォ・フェラーリの誘いを断ってからの46年間、いかに偉大なドライバーであったかということを考えると痛快な気持になって快哉を叫びたくなるのだ。
彼が偉大なドライバーであることを痛感させられた経験は、過去に数え切れないくらいあるが、そのひとつが私の最も記憶に強く残っている日本での一日のことだ。2003年の東京モーターショーのプレスデイが終了した翌日、我々はHondaの好意で、ツインリンクもてぎで、当時最新のNSXタイプSとNSXタイプRの最終バージョンの試乗とHondaコレクションホール訪問の機会に恵まれた。

そこで私はポールの天与の才能をまざまざと再認識させられることになった。

おそらく好むと混まざるとにかかわらず、様々なメディアを通じて過度に露出される現代のレースドライバーたちは、ややもすれば非常に社交的(外向的)な人間性の持ち主が多いきらいがある。ポール・フレールというドライバーは、対照的にいつも物静かな人間(ドライバー)であった。むろん、ジャーナリストというもうひとつの顔を持つ彼は、相手がメーカーの首脳であっても、チーフエンジニアであっても、必要だと感じた質問は、たとえそれがどんなに訊き辛い事柄であっても躊躇などしなかったが、そういう時も引き際をちゃんと心得ていて、決して相手が困るほど粘ることはなかった。彼が現役でレースするのを実際に見たわけではないので、この上品で洗練された男性のどこに、多くのレースドライバーの持つ荒々しさや激しい情熱が潜んでいるのだろうかと、いつも不思議に思い、戸惑ったものだった。

したがって、それぞれにあてがわれたNSXのコクピットにおさまり、ピットからロード・コース上に出て、ポール・フレールの後にしばらく走っている間に、彼が最初の数ラップはクルマの感触を確かめるために費やすのを常としていることを忘れ、そしてポール・フレールやフィル・ヒルといった偉大なレースドライバーと数え切れないほどの時間を過ごして、そのたびに私は自分が決してレースドライバーでないことを認識させられてきたにもかかわらず、つい自分の運転が巧くなったかのように錯覚し始めた。バンク下を右にターンしたところでコースは大きく開け、クルマの速度が増したと思った途端、ポールのNSXは飛ぶように彼方へと消えていった。NSXの中の私は笑うしかなかった。

話が少しそれるが、錯覚という言葉で思い出したもうひとつのエピソードをご紹介しよう。
それは、2005年の秋に鈴鹿サーキットで開催されたNSX fiestaに、私は、ポール・フレールの近しい友人で元スイスHondaの社長クロード・サージとともに招待され、至福の2日間を過ごしたのだが、そのときにサージが話してくれたポール・フレールがどれだけ凄いドライバーかというエピソードだ。
ご存知の方も多いと思うが、クロード・サージ自身レースドライバー出身であり、ジャーナリストでもあったことがあり、それが彼の誇りでもある。その彼でさえ舌を巻いたのがポールのドライバーとしての能力だ。
あるときどこかのメーカーのニュルブルクリンク・サーキット試乗会でポール・フレールと一緒に走ることになったそうだ。単独で走っても一向にタイムの縮まらない彼は、ふと思いついて、ポール・フレールのあとについて走ってみようと思ったらしい。必死に後を追って周回してみたら、なんとラップタイムが1分も縮まったそうである。何をか言わんや。(笑)

もてぎの話に戻ろう。サーキットでのドライビングセッション終了後、我々はHondaコレクションホールに案内された。 ここで我々はポール・フレールのもうひとつの顔、メカニカルなものすべてに関する彼の限りなく豊富な知識を持つ永遠の自動車少年に出くわす。ホール内に綺羅星のごとく居並ぶコレクション、たとえそれが旧くても新しくても、たとえ四輪であっても二輪であっても、ポールのそれぞれのマシンに関する博識にはひたすら圧倒される。と同時に、自分の知らない事実に行き当たった時の、貪欲に知識を吸収しようとする、文字通り少年のような純粋さと熱心さも印象深かく心に残っている。
アメリカで出版された“You Live and Learn. Then You Die and Forget It All”という題名の本がある。ほとんどの人にとって、その学習して得たものを“忘れる”ということは重要な意味をなさないが、ポール・フレールの得たものが彼の死とともに“忘れ去られる”というのは我々全員にとって計り知れない損失といえよう。ポール・フレールのように自分の得たデータを正しく評価できるジャーナリストやドライバーは過去にも存在しなかったし、おそらくこれからも現れないのではなかろうか。そう思うと、我々がポール・フレールの死とともに失ったものの大きさを考えずにはいられない。

最後にもうひとつ彼について忘れてはならない大切なことを記しておきたい。我々モータリング・ジャーナリストにとって最も気をつけなければいけないことのひとつに、自分のかかわる出版物と自動車メーカーとの間で仕事を混同しないようにするという不文律がある。もしあなたが自動車ジャーナリストである場合、自動車会社のコンサルティングを引き受けるべきではないし、その逆もまたしかり。しかし、ポール・フレールは長年に亘ってHondaを初めとする、世界の多くの自動車メーカーのためにコンサルティングをおこなってきた。そして驚くことに、そのことが、世界のどのメディアをも、どの自動車メーカーをも、一度たりとも煩わすことはなかった。

なぜ彼だけが鉄の掟に対して例外的にいられたのだろうか?

それは、誰一人として、たとえそれが自動車誌の編集者であっても、自動車メーカーの研究開発担当者であっても、そう、誰一人として、ポール・フレールから純粋で、ありのままの真実以外のものがフィードバックされると考えたことなどなかったからである。
彼の長年に亘るカーグラフィックやRoad & Track誌やHondaとの関係が、特定の自動車に関して正直に評価するという彼の信念や行為に影響を及ぼしたことなど決してなかった。
ポール・フレールのことは惜しまれてならないし、折りに触れて彼を偲び寂しく思うだろう。この文章を終えるにあたって、私はカーグラフィック誌に寄稿した追悼文の最後の1行を繰り返させてもらいたい。それはこうだ。「ポール・フレールのドライバーとしての能力、ジャーナリストとしての才能、そしてジェントルマンとしての資質、どれもその10分 の1でいいから私に授かっていれば、私は幸せになれたのに」。
(写真提供:カーグラフィック)


1956年の地元ベルギーGPに急遽参戦し、フェラーリ・ランチアD50で2位に入った。このモデルは前年に撤退したランチアのマシンを、フェラーリが引き継いで改造したものだ。


1960年ル・マン。オリビエ・ジャンドビアンと組んでフェラーリ・テスタロッサに乗り、念願のル・マンを制した。左がポール・フレール氏。


レースから引退した後、1963年にマラネロでエンツォ・フェラーリと再会したときの写真。


2003年、2代目NSX-Rのプロトタイプの試乗をツインリンクもてぎで行ったときの記念写真。一番右がポール・フレール氏、その隣がHondaの上原 繁さん、私、Hondaの塚本亮司さんと早内 稔さん。


2代目NSX-Rのプロトタイプのコクピットにおさまったポール・フレール氏。冷静に、この新しいNSX-Rを評価している。


クルマの感触を確かめたあと、ポール・フレール氏は、文字通り飛ぶようにツインリンクもてぎを駆け抜けた。


2005年のNSX fiestaにて。鈴鹿サーキット走行前のブリーフィングに熱心に聴き入るクロード・サージ氏(右)と筆者。


2003年の東京モーターショーHondaブースにて。当時、NSXの次期モデルかと噂されたHSCについてポール・フレール氏と語り合ったときの写真。彼は、真に純粋なモータージャーナリストだった。

 

ジョン・ラム氏について
30年以上のキャリアを誇る全米一有名な自動車のライター&フォトグラファー。米「ロード&トラック」誌の非常勤エディターを務めながら、日本のカーグラフィック誌など各国の自動車雑誌に見識とクルマへの愛情に富んだ原稿を寄せている。NSXの価値の高さを広く世界に伝えるなど、Hondaの一信奉者でもある。故郷のウィスコンシンの大学に在学中からレースの写真を雑誌に寄稿し始める。ベトナムにも報道記者として従軍。仕事でも趣味でも自動車を愛し、取材範囲もニュー・テクノロジー、ビンテージカー、紀行文と広い。

 
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