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●ポール・フレールの「Me and Honda」
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第4回「SUZUKA-1 ミレーシング・スクール講師として来日-」



サーキットで教習用に使われたS800。サスペンションを若干硬くし、レーシングタイヤG5をはいただけだったが、鈴鹿を2’58”4でラップした。
 


荒川テストコースで、本田社長(左)、中村良夫氏(右から2番目)らと歓談するポール・フレール。
 


羽田18:30発のジェット機で帰国する日の14:30まで、ポール・フレールは荒川テストコースで1300に乗っていた。
Hondaのつくった鈴鹿サーキットで、カーグラフィックの主催したレーシング・スクールのインストラクターを努めることになり、1969年の春、妻のシュザンヌともども初めて日本を訪問した。
日常の足にはN360が、講習用にはS800が用意されていた。そしてこのことがきっかけとなり、翌年から永年にわたり、毎年少なくとも1回は日本を訪れることになるが、Hondaともたくさん一緒に仕事をし、友人もたくさんできた。Hondaとは最初から縁があったのだなあとつくづく感じる。
さて、その鈴鹿で過ごした2週間で最大の出来事は、何と言っても本田宗一郎氏本人から昼食に招待されたことである。そして「すき焼き」なるものをご馳走になったのもその時が初めてだった。
光栄にも、当時すでに伝説化しつつあった本田宗一郎氏からの招待である。妻のシュザンヌと私は、喜んでお招きに応じレストランへと出かけていったが、宗一郎氏と過ごしたひとときは実に楽しいものだった。
偉人、ソーイチローはエネルギッシュで楽しい人柄の持ち主で、瞬く間に我々を魅了した。モータースポーツのことを熱を込めて語る一方、ヨーロッパの自動車産業に関して多くの質問を受けたのを憶えている。そして別れ際に、当時N360や小型商用車や小型二輪車を生産していたHondaの鈴鹿工場を見学したらどうかと勧めてくれた。

宗一郎氏の勧めに従って訪問した鈴鹿工場で、私は文字どおりカルチャー・ショックを受けることになる。クルマや二輪車の組み立て用部品がHondaの他の工場や下請け部品メーカーから、その部品が必要となる日に届く、「ジャスト・イン・システム」は、当時のヨーロッパにとってまったく未知のものであった。ヨーロッパの四輪および二輪メーカーは例外なく、予期せぬ部品供給の遅れや中断に対処するため、高い倉庫代を払うことに何の疑問ももたず常に大量の部品をストックしていた。その緊急事態の多くは、日本企業では考えにくい、労働者によるストライキが原因であった。
同様に深く印象に残ったのは、工場に勤める人たちが品質向上のために自主的に組織した「QC(クオリティ・コントロール)グループ」の活動だ。このQCグループのメンバーは毎週一度、勤務時間外に定期的会合を開いてまで、生産性と品質を上げるためにアイデアを出し合い、それを実践するという。これも当時のヨーロッパの企業では考えられないことで、労働者は躊躇なく、それも多くの場合は無意味なストライキを行い、会社の利益を犠牲にすることなど気にもかけないことが多かった。Honda鈴鹿工場で私が見聞きしたものはヨーロッパのそれとはまったく正反対の勤務態度と労働意識で、その労働者の会社に対する、また逆に会社の労働者に対する忠実な態度に大いに感銘した。
このホンダイズムともいうべき精神が、1968年には6番目のメーカーであったHondaを2001年には日本ナンバー2のメーカーに押し上げることに大きく寄与したと私は信じている。このような好ましい社風が育った理由には、トップから工場で働く末端の従業員まですべて作業服に身をつつみ上下のわけへだてなく同じ目的意識を持って働くことができるようにした宗一郎氏の偉大さもあったのではなかろうか。
 
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