|

1969年3月17日10時30分にパリを発ったボーイング707、パン・アメリカン119便は、中近東、東南アジアを経て、18時間後の翌18日10時35分、東京国際空港に着いた。シュザンヌ夫人をはさんで立つポール・フレールと小林彰太郎エディター(当時)。 |
| |

ほとんど観光のひまはなかったが、京都と鎌倉だけは観ることができた。 |
| |

Honda N360は1969年秋の第13回東京モーターショーでデビューした。 |
| |

毎日午前中は3時間にわたる学科。写真はギアチェンジの適切な時期について数式を折りこんで説明しているところ。 |
|
|
1967年、私は日本で一番著名な自動車誌、カーグラフィックからのオファーを受けて、定期的寄稿者となった。その後途絶えることなく35年以上続いている関係が始まったのは、当時のカーグラフィック編集長、小林彰太郎氏が、英国の「The
Motor」(その後廃刊)に私の寄稿したフェラーリ330GTCのロードテスト記事を読んで気に入ったらしく、その頃カーグラフィックの編集に係わっていたジャック・ヤマグチという名の人を通じて、その記事のカーグラフィック誌への転載許可を求めてきたことに端を発する。
ショータローは、50年代から60年代の初めにかけてフェラーリ、ジャガー、アストン・マーティン、ポルシェといったチームのドライバーとしてたたかっていた私のレース・キャリアを詳しく知っていたらしい。1968年の暮、当時私はまだブリュッセルに住んでいたが、イサオ・ワタナベというブリュッセルで勉強中の若い日本人から連絡を受けた。彼は、カーグラフィックを出版している二玄社の渡邊隆男社長の弟だと名乗り、上手なフランス語で、Hondaがつくった鈴鹿サーキットでレーシング・スクールをカーグラフィックが主催する。ついては、インストラクターを務める気はないかと、兄に代わって頼んで来たのだった。この講習会は2週間にわたるが、そのあともう1週間日本に滞在して京都や奈良を観光したり、日本の自動車メーカーを訪問して、ジャーナリストとして興味深い材料を集めることも、この招待旅行には含まれていた。これは非常に魅力的だったし、私だけでなく妻のシュザンヌまで招待されていたので、私は一も二もなく承諾した。
1969年3月17日、途中ベイルートでワンストップし、東南アジアを経由する18時間のフライトを行った。それで我々は羽田(成田はまだ完成していなかった)で小林彰太郎カーグラフィック編集長と山口“ジャック”京一氏の迎えを受けたのだ。最初の2日間は東京に滞在して、時差ぼけを取るために休息する予定だったが、見るもの、聞くものすべてがめずらしいうえに、すべてが魅力的で、関係者のみなさんのエスコートぶりも見事で、ほとんど休息する暇はなかった。
日本に着いて3日目、ショータローの案内で新幹線で名古屋まで行き、電車を乗り継いで鈴鹿に移動、我々の宿となる鈴鹿サーキット・ホテルに到着した。ホテルに我々を待ち受けていたのは小さく可愛いHonda
N360で、サーキット内の移動用にとHondaが貸してくれたものだ。
日本に来る少し前に、そのクラスではロケットのように速いヨーロッパ輸出用のN600をテストしていたこともあって、N360は小さな排気量のエンジンの載るN600と同じボディのクルマということとしか印象に残っていないが、日常の足としては理想的であった。
鈴鹿のレーシング・スクールの参加者は、それぞれ自分のロードカーを持ち込むことになっており、1グループ約20人で1日、2日、3日のコースがあった。午前中は理論学習で、午後から実際の走行レッスンが行われた。私は日本語をひとことも解さないので、講義は英語で話し、通訳に浅岡重輝(いまは著名な自動車ジャーナリストになり、親しい友人でもある)という、当時いすゞの社員レーシング・ドライバーだった青年が付いた。彼の英語のレベルも十分なものとは言いがたかったが、レーシング・ドライバーという立場と私が黒板に描く図も手伝って、講習は徐々にスムーズになっていった。
|
|