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Honda創立50周年を記念するモデル、Honda S2000。一途なHonda DNAの所産である。 |
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現在住んでいるモナコのナンバーのついた愛車、CR-XでS2000の試乗にやってきたポール・フレール氏。オドメーターの数字は優に10万kmを越えており、内装もところどころ古びつつあるぐらい使い込まれている。つまり、それほどのお気に入りだという証でもある。 |
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『ギアボックスはまるで夢のように素晴らしい。動きが非常にクイックでストロークがごくごく短く、これはもう、ほとんどレーシングカーのそれといっても過言ではない。おそらく私がかつて経験したベストのうちのひとつに数え上げられるだろう』とポール・フレール氏絶賛。 |
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S2000試乗後、開口一番、「ステアリングとギアボックスが素晴らしい!」と語るポール・フレール氏。 |
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ホンダ・オートモビルズ・スイス(ジェネーブ)社長のクロード・サージ氏が、Hondaにとってのみならず、Honda社外ではヨーロッパ自動車業界において最も影響力のある人物の一人ということは多くの人が認めている。
それはクロード・サージ氏が知識も経験も豊富だし、最新情報を常時把握できる強いネットワークを持っているからでもある。その当時数年後に控えていた1998年に創立50周年というおめでたい節目をHondaが迎えるにあたって、彼は当時のHonda
R&Dヨーロッパのマネージング・ディレクター、鈴木久雄氏と話し合いを行った。そして、Honda創立50周年はホンダ・スポーツの精神を正統に継承する新しいスポーツカーの発表をもって祝うべきだという考えで意気投合したのだ。その新型スポーツカーとは、コンパクト2シーターに高性能2リッターVTECエンジンを搭載したものであるとの考えでも一致した。そしてその後、このプロジェクトは正式に立ち上がった。
1997年6月、クロード・サージ氏によって国際的なジャーナリストが数名招待された。ジュネーブ周辺のテクニックを要する道路で、価格と性能においてHondaが新型スポーツカーのターゲットとして選んだ、数台のクルマを乗り比べるドライビング・セッションがオーガナイズされたのだ。
むろんHondaが新しく開発するスポーツカー(その当時はGSというコードネームがつけられていた)が打ち破るべきベンチマークとなるクルマはどれかという意見を聴くためである。一方日本では、この段階ですでに最初のプロトタイプが生産されていた。
その時招待されたジャーナリストは、私を含めて6名であった。 ドライビング・セッションの直後に、我々はそれぞれのクルマに対するインプレッションをその場にいたHondaの開発陣に直接レポートする一方、彼らが用意したアンケート用紙に答えるよう求められた。その時その場に集められたのは、ポルシェ・ボクスター、BMW
Z3-2.8、メルセデス・ベンツSLKコンプレッサー、そしてフィアット・バルケッタの4台であった。予定されていたアルファ・ロメオ・スパイダーとMG-Fは姿を見せなかったが、NSXも試乗できるよう用意されていた。
複数のジャーナリストが一堂に会し、日本、英国、スイスから集ったHonda関係者とともにそれぞれが乗ったクルマに対して意見交換したのはこの時が最初で最後だった。それは、これから先はなるべく個人的な意見を聴く一方でジャーナリスト相互間の影響を排除したいと、S2000の開発チームが個別のディスカッションを希望したためだ。
したがって1997年暮れにS2000の初期型プロトタイプを初めて目にし、上原 繁氏を責任者とする開発チームと意見交換した時、その場にいたジャーナリストは私一人だった。
場所はニュルブルクリンクの近くの小さな町のホテルで、そこからはHondaのワークショップも近かった。そのプロトタイプはまだ出来も粗く、そしてこってりとカモフラージュされていた。テストドライブのあと、ボディが最終的に決定されるまであと数回スタイリングチェンジを受けるという説明を受けながら、あるガレージの中でカモフラージュが剥がされたプロトタイプを囲んで熱のこもったディスカッションが行われた。ノーズはもっとクリーンなものがいいと主張したが、ナンバープレートを取り付ける必要があって大幅な変更はできないといわれた。もう1点はドライビング・ポジションに比べて頭の位置が高すぎる点を指摘した。
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