社史

ジユノオ

 吾が社がスクーターについて研究の歩を進め始めたのは昭和27年の早春の頃からで、本田社長の尽きざる慧智とエネルギーがそそがれ、生物が育成されるように次第に成長し、翌28年の盛夏の時季に漸く試作品が埼玉大和工場に現われた。
 先ずボデイは一般の今までの観念より飛躍して、ポリエステル樹脂を使用したもので、鉄の重さの3分の1で鉄より強く、軽くて優美で、鋳造の自由と、従つて熔接個所がないため強度が一段と鉄にすぐれ、また完全絶縁体のため電気関係の漏電の心配もなくエンジン音の防音作用も果している。色彩も自由に選択できるので現在見られる明るい色の採用が可能なのである。ポリエステル加工は米国でも研究過程にあり、製品としては小間物、化粧品、軽食糧品の包装位で、軍用の兜などが大きな加工品であつた。偶々52年式米国乗用自動車の一部に用いられたが、大量生産に及ばず現在に至つている。
 吾が社は本田社長の英断によりスクーター車体にこれを使用し、ためにポリエステル加工の大型物の生産は世界の嚆矢となつた訳である。
 埼玉大和工場のポリエステル係の苦心、苦衷は言語に絶し、研究するにも、生産するにも、自分等が世界で初めてであるから、人跡未踏の地を探検するのと同じく、ポリエステル係全員は勿論、社長工場長及び工場幹部は皆頭脳を絞りに絞り、従つて幾多の新発見、新発明が生れたのである。
 車体のみでなく風防に透明アクリル樹脂を用いて風雨より運転者を保護し、強い光線から眩しさを避け得るように装備された。
 車の始動にはキック式と並用して2輪界では初めてのセルモーターによる始動方式を採用した。これは3輪車界にも大きな刺戟を与え次期生産の3輪車の大部分がセルモーター始動を装置した。又正面前にウインクアーを取付けてあるため、いままでの2輪車の如く手により合図したり、方向指示器を別に設置する要がなくなつた。
 吾が社のスクーターが「ジユノオ」号と命名され、28年11月23日に本社において発表されるや、その科学と芸術が渾然一体となつた作品に業界はもとより一般世人もただ唖然として、この美観に見惚れ、この美術品が音も静かに疾駆する態は、今迄の2輪車とか、スクーターの概念をはるかに飛び越えている。
 初期の製品のエンジンは4サイクル、190cc、6・5h.p.を搭載したが、220cc、9h.p.のエンジンが完成するとともにこれを載せて販売戦上に進出した。
 また、ベンチレーションも初期の製品には通風容量が小さなものがあつたがこれも改良され、大量の空気がエンジン室に送られる措置がとられた。
 何れにしてもギリシヤ神話の女神の名をもつたこの車は、吾が社の研究と技術と芸術の総力の結集であり、このようなスクーターが吾が国で造られたということは、立ち遅れた吾が国工業界の一大投石であると同時に世界に誇り得るものである。
 ジユノオ号は社内又は工場内においてはK型の記号を以つて呼ばれ、正式に量産に入つたのは29年1月からで前述の如くポリエステル加工という前人未踏の事業であり、結局は製作しつつ研究していく状態にあつた。各販売店を通じ需要は湧くが如くであつたが社長の「良品に非ざれば絶対にお客へ渡さぬ」という強い信念のもとに生産するのであるから、如何にしても製作台数は挙がらず、ジユノオ号生産関係者はいらだつ心を抑えながら、この困難を突破しなければ真のホンダマンに非ずと、身を粉にしてこの難事業に突入し、漸く4月から自信を得るに至り月産4百台を挙げるに至つた。
 スクーター業界では吾がホンダの進出を恐れ、ジユノオ号がボツボツ街頭に姿を現わすと各種のデマゴーグを飛ばして惑乱的戦術に出たが、5月に東京日比谷において第1回自動車ショオが開催され、吾が社製品が陳列されるや、殊にジユノオ号の人気は湧き立ち、早朝より夕刻までホンダの陳列場に蝟集した人々は立去らなかつたのである。
 この好評によつて益々自信を得たK型関係者は愈々研究を深め、より良い製品に向つて生産に没頭した。
 然し29年は経済界の不況で中小企業者の多数の倒産だけでなく、世に大会社と称せられるものも整理に入るもの多く、又同業の自動2輪車界においても続々休業に入り130社を数えた自動2輪車メーカーも半減した。
 この混乱裡に際し、吾が社の堅実なる経済方針は歩武堂々揺ぎなく、例えK型生産台数が予想の線に達しなかつたとはいえ、従業員のより一層の決意のもとに前途は洋々たるものがある。







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