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ゴルフの雑学・マメ知識ゴルフ偉人伝「赤星六郎」
〜日本ゴルフ発展の功労者

2016.02.26

日本のゴルフの歴史を語る上で欠かせないのが、赤星六郎という人物です。

鹿児島県薩摩藩旧郷士出身の実業家、赤星弥之助の六男として産まれた六郎は19歳で渡米。プリントン大学在学中の1924年に、パインハーストGCで行われた全米規模の権威ある大会『スプリングトーナメント』に出場すると、並み居る強豪を抑えて優勝。彗星のごとく現れた強い日本人選手にアメリカのゴルフ界は騒然となったといいます。海外の試合で優勝した初めての日本人でした。

留学中の1924年に全米規模のアマチュア競技スプリングトーナメントで優勝した赤星六郎は帰国後に日本オープンの初代チャンピオンになるなど、日本を代表するゴルファーとしてゴルフの啓蒙に努めた。

留学中の1924年に全米規模のアマチュア競技スプリングトーナメントで優勝した赤星六郎は帰国後に日本オープンの初代チャンピオンになるなど、日本を代表するゴルファーとしてゴルフの啓蒙に努めた。

翌25年、六郎はプリンストン大学を卒業して帰国すると、まだ黎明期だった日本ゴルフ界の発展に大きく貢献することになります。日本一のゴルファーを決める日本オープンの開催に尽力し、1927年に実現した第1回大会では2位に10打差をつけての圧勝。この頃、宮本留吉や安田幸吉など当時のプロは六郎からスイングの手ほどきを受けて腕を上げていきました。シャフトの素材がヒッコリーからスチールに変わって劇的に進化した欧米の近代スイングを日本にもたらしたのは赤星六郎だったのです。

コース設計でも非凡な才能を発揮した六郎は、1930年に我孫子ゴルフ倶楽部、翌31年に相模カンツリー倶楽部を誕生させますが、2つのコースは「日本人による日本のゴルフコース」の常識を大きく覆すものでした。それまでのコースは知見のないなか、手探りで造られたため無難なものが多かったのですが、六郎のコースは独創性に溢れていたため、既存のコースに慣れた人たちの目から見れば異色に映ったのです。

本場のゴルフコースを知り尽くし、「ゴルフコースは一個の芸術として完成されたものでなければならない。設計者その人の性格の表現であり、夢をコースによって具現化することなのである」という設計哲学を持つ六郎のデザインはまた、ゴルファーに高い技術を求めるものでした。ジーン・サラゼンがサンドウエッジを発明したのが1932年ですから、当時の日本人ゴルファーがまだバンカーに四苦八苦していました。それでも六郎は、欧米風の深いバンカーを採り入れた立体的なコースを日本の大地に造成したのです。

六郎がもたらしたものは、技術論やコース設計だけにとどまりません。「紳士のスポーツ」と呼ばれるゴルフをどうプレーすべきかを、自らが実践することで広く伝えたのも大きな功績です。

ゴルフ黎明期のプロを指導する六郎。

ゴルフ黎明期のプロを指導する六郎。

作家の夏坂健氏は著書『ゴルフの神様』の中で、六郎が語ったとされる「本物のゴルファー」になるための条件を紹介しています。

1 相手の身になって物事を考えよ。
2 みっともない真似はするな。
3 余計なことは言うな。虚言を弄するぐらいなら沈黙を守れ。
4 自分を客観的に見よ。
5 自然に振る舞って、媚びるな。
6 威張るのは知性の欠如の証明だ。
7 謙虚な姿勢で練習に励め。慢心はゴルフの大敵と知れ。
8 コースからスコアだけを持ち帰るものに友人はできない。
  誠実な人に対してゴルフは多くの友情をお土産にくれる。
9 紳士は春風のごとくおおらかであれ。春風は誰に対しても優しいものだ。

黎明期のゴルファーはこのような考えを持つ六郎から薫陶を受け、成長し、その結果として日本のゴルフがつくられていったといっても過言ではありません。残念ながら六郎は戦時中の1944年に、釣り針の傷による破傷風で急逝してしまいましたが、その思想は名門といわれる全国のコースにおいて脈々と受け継がれているのです。


Honda GOLF編集部 小林一人

Honda GOLF編集長のほか、ゴルフジャーナリスト、ゴルフプロデューサー、劇画原作者など、幅広く活動中だが、実はただの器用貧乏という噂。都内の新しいゴルフスタジオをオープンし、片手シングルを目指して黙々と練習中。

出典 我孫子ゴルフ倶楽部 赤星六郎アーカイブス

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