マメ知識

ゴルフの雑学・マメ知識スロープレイを嫌った日本人ゴルファー

2012.01.31

ゴルフの基本は「あるがまま」(Ball Played As it Lies)、ボールが置かれたあるがままの状態でプレイすることが最も大事な原則です。

6インチプレースなど本来は邪道、ディボット跡やベアグラウンドのボールはそのままプレイするのがゴルフの精神にのっとった行動と言えるでしょう。同じく重要なのが「Play Fast」という考え方。文字通り「速やかにプレイせよ」という意味ですが、日本でこれを広めたのが白洲次郎というゴルファーでした。
白洲次郎は明治35年(1902年)に兵庫県で生まれました。父親は綿花貿易で財を成した実業家で、裕福だった次郎は旧制中学を卒業するとケンブリッジ大学に留学。仕送りの額は膨大で、当時の超高級車だったベントレーとブガッティを乗り回すなど放蕩三昧の生活を送ります。しかし留学中に父親の会社「白洲商店」は倒産。車を売った代金を旅費にして帰国した次郎は失意のサラリーマン生活を余儀なくされます。

次郎の運命を変えたのは、後にエッセイストとしてカリスマ的な人気を得ることになる正子との結婚でした。正子は伯爵家の令嬢であり、その縁で当時外交官だった吉田茂と出会うのです。
吉田茂といえば戦後の日本の舵取りを行った総理大臣ですが、吉田は早くから英国仕込みの英語力と天性の交渉能力を持つ次郎に目をつけていました。

終戦直後、外務大臣に就任した吉田は、次郎を終戦連絡中央事務局参与に任命しGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との折衝にあたらせたのです。当時、政治家や役人のほとんどがGHQの顔色を伺い弱腰になる中、次郎は「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」と強硬に主張。毅然とした態度で任に当たり、GHQの高官に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。
吉田政権誕生後も首相の側近として活躍、昭和26年にサンフランシスコ講和条約が結ばれたときも主席全権顧問として立ち会い、英語で予定されていた吉田の演説文を日本語に書き換えさせたのでした。
ハード・ネゴシエーターだった次郎が何よりも大事にしたのがプリンシプル(原則)でした。何事にも原則をはっきりとさせ、それに基づいて発言したり行動することが大切だと考えたのです。その姿勢はGHQとの折衝においてはもちろんのこと、その後実業家になってからも、そして理事長を務めた軽井沢ゴルフ倶楽部でも貫かれました。

軽井沢ゴルフ倶楽部といえば、廣野ゴルフ倶楽部同様、国内で最もプレイするのが困難なコースですが、「メンバーオンリー」の伝統は次郎が残したプリンシプルといえるでしょう。

時の総理大臣がプレイしたいと申し出ても「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言ってのけ、マナー違反のゴルファーを見つけると、それがどんなお偉方でも構わず叱りつけたといいます。プロゴルファーがプレイできないのも同倶楽部の絶対的なプリンシプルで、軽井沢ゴルフ倶楽部では開場以来、プロゴルファーは誰一人としてプレイしたことがないそうです。
さて、Play Fastはゴルフをこよなく愛した次郎が最も重要視したプリンシプルで、「Play Fast!」と書いたTシャツを着てコースを回り、この精神をPRしたというエピソードが残っているほどです。これほどまでにこだわったのは次郎がせっかちだったせいもありますが、Play Fastはマナーの上でも、そして上手くプレイする上でも大事な要素であることは間違いないでしょう。

マナーに関して言うと、すべてのゴルファーは平等なので、誰か一人が時間を多く使うことは許されません。18ホールに要する打数が多いなら、1打にかける時間は短くしなければならないのです。次郎に言わせれば、下手がラインを読むなどもってのほか。もしそんなシーンを目撃しようものなら「さっさと打て!」と雷が落ちたのは想像に難くありません。
Play Fastはスコアメークにおいても良い影響を及ぼします。ショットでもパッティングでも、長すぎるアドレスはミスのもと、筋肉が硬直してくるのでスムーズに動けなくなるからです。

1920年の全英オープンで優勝した往年の名選手ジョージ・ダンカンも「早くミスしろ!」という言葉を残していますし、マスターズでのダブルイーグルで有名なジーン・サラゼンもこの警句に共感し「早くミスしろ!倶楽部」を作って会長に収まったほどです。
日本人プレイヤーでは倉本昌弘プロが「構えてから3秒で打つ」ことを提唱するなど、あっさり打つことのメリットを説く選手は枚挙に暇がありません。
名手たちが口を揃えて言うのですから、Play Fastは実践する価値がありそうですよね。少なくとも、このプリンシプルが身に付けば、きっとゴルフのお誘いが増えることと思います。

英国流のマナーと進歩的精神を身に付けながらも、決して日本人としてのプライドを失わなかった次郎。ふだんは自宅での食事の時でさえスーツにネクタイを着用する伊達男だったが、サンフランシスコ講和会議に向かう機内ではあえてジーンズにTシャツで過ごした。このことから「日本で初めてジーンズをはいた男」としても知られる。

絵と文
Honda GOLF編集部 小林一人

Honda GOLF編集長のほか、ゴルフジャーナリスト、ゴルフプロデューサー、劇画原作者など、幅広く活動中だが、実はただの器用貧乏という噂。都内の新しいゴルフスタジオをオープンし、片手シングルを目指して黙々と練習中。

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