東 雅雄という男
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第一章 釣り好きの少年が世界にはばたいていくまでには
全日本チャンピオンの先にあるものは
1993年に国内A級に上がってTIの地方選手権でチャンピオンを取った東は、1994年には国際A級に昇格し、ランキング12位に入った。そして、1995年には宇井陽一(ヤマハ)に続いてランキング2位に入っている。この年(1995年)、東にとって一番思い出に残っているのは9月10日に鈴鹿サーキットで行われた全日本選手権第7戦だった。宇井とチャンピオン争いをしていた東は1周目、デグナーカーブでコースアウト。最後尾で1周目を終えた時点では、トップとの差は30秒近く開いていた。しかし、そこからの東の追い上げは壮絶だった。毎周4,5台ずつ、約40人のライダーを抜いていき、15周のレースのうち11周目にはトップに立った。そして、ついに2位に約0.3秒差をつけて優勝したのである。

この時、東がマークした2分17秒158というラップタイムは、その年の4月に行われた日本GPで、当時125cc世界チャンピオンだった坂田和人がマークした2分17秒442というタイムを上回る驚異のタイムだったのである。だが、東はこの時のことをよく覚えていないという。頭の中は真っ白で、とにかく“早く追いつかなくちゃ!”と無我夢中で走ったという東。普段は比較的冷静にレースを組み立てている東にしては珍しいほど“がむしゃらに”走ったレースだったのだ。 1995年 9/10  全日本ロードレース第7戦( 鈴鹿 )にて優勝

翌1996年は東雅雄にとって全日本チャンピオンを狙うための年だった。4月21日にワイルドカードで出場した日本GPで、トップグループにすがりついて6位に入賞した東は、この時、自分と世界グランプリの常連ライダーの間にはそれほど大きな差がないことを感じ取っていた。確かにマシンの差は大きい。しかし、ライダーの差はそれほどではない。東はそう考えていた。ちなみにこの時、優勝したのはアプリリアに乗る徳留真紀で、2位に青木治親(Honda)、3位上田昇(Honda)、4位眞子智実(Honda)と日本人ライダーが上位を独占していた。

前年ライバルだった宇井陽一は、すでに1996年から世界グランプリにフル参戦を開始していた。また、この年は前年世界チャンピオンになった青木治親を筆頭に8名の日本人ライダーが125ccクラスにフル参戦するという“日本人ライダー黄金時代”だったのである。とにかく全日本チャンピオンを獲得することを目標としていた東にしても、次に世界グランプリへステップアップするというのは当然の成り行きだった。翌年、参入させてくれるチームをみつけるために、東は9月1日にイタリアのイモラで行われた“イモラGP”に出かけていった。そして、ルーク・ボデリエというオランダ人ライダーが、“翌年から自分はライダーをやめてチーム運営に回る”という話を聞きつけ、そこで走らせてもらうことにしたのだった。 1996年 7/7 全日本ロードレース第6戦(SUGO)


帰国した東は最終戦を待たずに1996年の全日本125ccチャンピオンを獲得した。そして、その後は翌年からの世界グランプリ参戦に向けて準備を開始したのである。しかし、東にとって一番不安だったのは、果たして自分のエントリーが受け入れられるかどうかということだった。前年の世界ランキングで15位までに入っているライダーは確実にエントリーが保証されている。しかし、1996年の実績がワイルドカードで出場した日本GPでの6位だけという東の場合、1997年に出場できるかどうかは年を越さなくては分らなかったのである。 1996年 11/3  全日本ロードレース 第11戦( MFJ・GP・SUGO )

こうして、不安と期待が織り交ざる中、全日本チャンピオン東雅雄は新しい年を迎えようとしていた。
(つづく)
第二章 鹿との遭遇
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