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 2002年シーズンからスタートする新生MotoGPの規定に合わせたHondaの4ストロークマシンは、2000年春のレギュレーション確定と同時にその開発が開始された。そして開発グループがまず掲げたのは、具体的な性能や数値以前の、高い目標だった。

「Hondaらしさとは…、Hondaが創るニューマシンとは…」

 自らその意味を問い、そこに明確な答えを導き出すこと、それが4ストロークマシンの開発における最大にして最高の目標だった。市販車やレーサーにかかわらず、クルマ全体のコンセプト作りがなされなければ、マシンは具現化してこない。

 エンジン気筒数の検討プロセスにおいて、まず最低重量が155kgとなる6気筒以上の選択は、タイヤの耐久性の面で明らかに不利と判断された。もちろん、最高出力や加速性、最高速の点で6気筒以上のエンジンに大きな可能性があるのは確かだったが、現在のレースはその出力をいかにタイヤに効率的に伝え、それをレースタイム全域にわたって持続させるかが重要となる。6気筒は、こうして選択肢から外された。

 1、2気筒には、マシン全体を軽量かつコンパクトに仕上げられる要素がある。しかし6気筒の対極の存在として、その最高出力や加速性、最高速の点で明らかな劣性を覚悟しなければならない。1、2気筒も、これらの理由によって選択肢から外された。

Hondaの、そして日本のメーカーとして初めて海外のレースに挑んだ記念すべきマシン「R125」。下は、Hondaがグランプリ初優勝を果たした「RC143」。ともにHondaらしさがあふれる、初期の作品

 こうして、実質的なエンジン気筒数は3〜5気筒の中でその検討が進められることとなった。しかし、この3、4、5気筒は、同じ要件の上に置かれたものではない。3気筒の最低重量は135kg。一方4、5気筒の最低重量は145kgとなる。綿密な図上検討の結果も、3気筒が非常に魅力的なものであるという結果を導き出していた。おそらく、ライバルも3気筒もしくは4気筒を採用してくることは容易に想像されるものだった。

 しかし検討の場で、こんな言葉が発せられたことがあった。

「よそは当然3か4で来るだろう。うちは過去に3も4も経験がある。 はたして3や4をやって、面白いだろうか?」

 技術者にとって「チャレンジ」ほど自らを燃え上がらせるものはない。よそはいざ知らず、少なくともHondaの技術者にとって、多大な苦労を背負ってでも自らにチャレンジし、未知の世界を切り開くことこそ、最大の喜びであり使命であることは確かだった。

「困難でも、経験が無くても、でっかい夢を描こう!」

 その時、開発の最前線にいる技術者たちの瞳は、少年のようにキラキラと輝いていた。

グランプリ復帰後、2ストロークによる優勝を実現した「NS500」。下は、その後常にグランプリ500ccクラスのトップを走り続けた「NSR500」の85年型。ともに80年代初期を駆けた名機
 プロジェクトリーダーは、検討プロセスの中で、1台のマシンを思いおこしていた。それは、彼にとって忘れることの出来ないマシンだった。  

 時は、日本中がレプリカブームに沸き立っていた1988年。Hondaでは、既存の枠を超えた究極のハンドリングを備えるマシンの開発が進められていた。常識を越えたコンパクトネス。重心位置の最適化。ハイレベルなマスの集中化。これらの要件を満たすため、全く新しい60°V型6気筒の試作エンジンが生み出された。

 エンジンの形態は、可能な限り球体に近づけることが求められた。物理学的に、完全な球はその重心位置、つまり中心からどの方向 (ロール、ヨー、ピッチの3方向)にも、同じ慣性モーメントを示す。

 エンジンがあらゆる方向のGに対して同じ慣性モーメント=同じ挙動を示し、かつそれぞれの慣性モーメントが小さければ、バイクの構成パーツで最も大きく重いエンジンが、車体全体の挙動におよぼす影響を極限まで小さくすることができる。

 さらにエンジンを車体に搭載する位置を選択する自由度が大幅に向上し、ひいてはバイクの運動性能に最も影響する重心位置の最適化、マスの集中化を達成する事ができ、またライディングポジションの自由度も飛躍的に高められる。

88年型 CBR400RR

 完成した試作V6エンジンは、直4よりもV4よりも軽量でありながら、当時のTT F-1レギュレーションのホモロゲーション用ロードゴーイングレーサーRC30のパワーをもいとも簡単に上回った。

 そのエンジンを積んだ試作マシンにはFXXというコードネームが与えられ、夏には栃木研究所のテストコースにおける試乗会が実施されることとなった。

 激しく照りつける真夏の陽射しの下に運び出されたFXXは、開発チームの思惑通り、試乗会に参加した本田技術研究所の取締役やエース級のテストエンジニア達を驚愕させるハンドリングを示した。まだ流用フレームに搭載した段階の試乗でありながら、直4以上の安定感と、サーキット直系のV4の切れの良いハンドリングの両方を兼ね備え、さらにそれらを上回り得る素性の良さは明白だった。

 V6エンジンは驚くほど振動が少なく、既存のV4や直4がガサツで時代遅れなモノに思えるほど高級感にあふれていた。しかしレプリカブーム真っ盛りで、体感的にスパルタンである事が何よりも求められた80年代終わりのこの時期に、羊の皮をかぶった狼のようにシルキーなV6のフィーリングは、どうしても要件に収まりきらないコストの問題と併せて、最終的にマーケティング戦略から外されることとなり、市販化が実現することはなかった。

 他にない大きな夢を描くこと。そして幻のFXXの存在。それらが融合した時、新生MotoGPに挑む4ストロークマシンの骨子が強固に固められた。

 2000年9月、4ストロークニューマシンのエンジンは、V型5気筒に決定された。

87年型 RC30

 2000年12月28日は、Hondaにとってその年の仕事納めの日だった。そしてこの日は、4ストロークニューマシンの開発グループにとって、大切なマイルストーンとなった。

 

 まだ試作段階ではあったが、真新しいV型5気筒がベンチにかけられ、火が入れられた。その瞬間はまさに、Hondaが21世紀のレースシーンに新たな一歩を踏み出した瞬間でもあった。

 もちろん、産まれたばかりのV型5気筒は、テストベンチの上で赤ん坊のようにむずがることもあった。ただ、その子が予見を上回る素性の良さを持っていること、そして限りない可能性を示したことは明らかだった。こうしてV型5気筒は世紀を跨いでこの世に生を受けた。

 世間には様々な意見があったのも事実だ。開発期間を短縮するために、既存のフレームに経験のあるエンジン形態を収める手法ももちろんあっただろう。RVFなどで充分過ぎる程の経験のあるV4を熟成するという方法も考えられなかったわけではない。車体まわりにしても、冒険を嫌い既存の技術で手堅くまとめる事も可能だった。

 しかし、すべての事項に決定を求められた時、開発グループは常に「その答えはHondaらしいか?」を問うことを忘れなかった。安易を選ばず、「夢」と「挑戦」という言葉が、いつも開発スタッフの背中を押し続けた。

 その後の開発は、思いのほか順調に進んでいった。車体まわりの構成にも多くのチャレンジが盛り込まれた。夢は、どんどん具体的な形になっていった。

 開発グループにとって、まず目前にある目標は、他ならぬHondaのグランプリマシンNSR500だった。1984年のデビュー以来、GP500の最先端を走り続けてきたNSR500こそ、4ストロークニューマシンが超えなければならない壁だった。

エンジンレイアウトは、V型5気筒。前3気筒、後ろ2気筒のVバンク間にPGM-FI (programmed fuel injection)システムを装備。総排気量は990ccで、各気筒4バルブ。Vバンクは75.5度となっている

 社内コースでの開発テストをくりかえし、そして2001年4月10日、その4ストロークニューマシンは、ついに一般のサーキットでシェイクダウンを行なうに至った。

 宮城県・スポーツランド菅生。多くの人が、なぜ鈴鹿やもてぎではないのかと不思議がった。答えは明確だった。Hondaが長年積み重ねてきたレース活動の中で、スポーツランド菅生はもっとも苦手とするコースだった。その難しさは、開発グループのメンバーが一番良く知っていた。

 そんなスポーツランド菅生をシェイクダウンの場に選ぶことは、まさにHondaらしいチャレンジそのものであったかもしれない。そしてまたそこには、静かなる闘志が秘められていたのかもしれない。

 もちろん、緊張はあった。社内のテストとはまったく異なる雰囲気があったのは事実だ。しかし、期待にふくらむスタッフの胸に、一片の不安も存在してはいなかった。

 そしてマシンは力強くコースに押し出され、V型5気筒のエンジン音が、緑豊かな菅生の山々に響きわたった。

RC211Vが初めてその姿をあらわした記念すべき2001年4月10日。快晴に恵まれたシェイクダウンテストは、順調にそのスケジュールが消化されていった

 

 マシン開発が進められるのと同じ時期、社内ではこの新しい4ストロークマシンのネーミング作業が続けられていた。新たな時代に挑む、まったく新しい4ストロークマシンのネーミングに、多くのアイデアが集まった。しかし、簡単に決定打は放たれなかった。

 その時プロジェクトリーダーは、Hondaの原点を見つめ直した。1959年の、4ストロークマシンによるグランプリ初参戦。Hondaには、誰にも真似の出来ない豊かな歴史と、そして誰にも勝る着実な成果の積み重ねがあった。

 「RC」その名には、Hondaの4ストロークグランプリマシンにもっともふさわしい響きがあった。その名は、揺るぎない歴史と栄光に彩られていた。新しい世紀の新たなレースに向かって発進するマシンに、再び「RC」の名を冠すること…それは、Hondaの決意と情熱を力強く披瀝することでもあった。

 RCの後には、21世紀最初のファクトリーマシンをあらわす「211」が続けられた。そして、末尾の「V」には、V型エンジン、5気筒の5をあらわすギリシャ文字、勝利=Victoryの意味が込められた。

 「RC211V」2002年度からスタートするMotoGP用4ストロークレーシングマシンは、こうして体を成し名を冠され、本格的な開発テストへと駒を進めていった。

 スポーツランド菅生でのシェイクダウンテストでは、RC211Vの方向性の正しさと素性の良さを充分に確認することが出来た。もちろん、走り始めたばかりのワークスマシンには、解決しなければならない問題が山ほどあることは確かだったが、そこには不安も迷いもなかった。

 6月に、再びスポーツランド菅生でテスト。8耐終了後には第一線のグランプリライダーがRC211Vをテストライド。その後国内のサーキットでのさらなるテスト走行を経て、ヘレス、カタルニア、フィリップアイランドと、海外のグランプリサーキットにおける開発テストが順調に続けられた。

 2000年9月の、V型5気筒エンジンの採用決定から1年の時を経て、RC211Vは力強い実戦力を身につけ、活き活きと各地のサーキットにその足跡を残していった。そして2001年11月には、開発段階の完了報告がなされ、開発を担当した朝霞研究所から、実戦部隊であるHRCへと、RC211Vの引き渡しが行われた。

 2001年の暮れ、開発を担当したプロジェクトリーダーは、それまで1年数ヶ月の足跡を振り返りながら、こう語った。

「はい、いいマシンが出来たと思います。もちろんレースになってみなければ評価出来ない部分もありますが、ボクらは''Hondaらしいマシン''を創りあげた。これに関しては絶対の自信があります」

 2001年12月26日、開発スタッフはもてぎで忘年会を迎えていた。そしてその日は、開発スタッフがもてぎに集い、自らが創り上げたRC211Vに実際に乗ってみようという場でもあった。もちろん多くのスタッフが本格的なレースライディングなど出来るわけもないことはわかりきっていた。

 しかし、そんな形でプロジェクトに区切りをつけることも、Hondaらしさのひとつだったかもしれない。夢を描き、挑戦することで自らを駆り立てたスタッフの顔は、寒風のもてぎにあって、キラキラと輝いていた。

海外へのテストに送り出されたRC211Vは、各コースでレコードに迫る充分な成果をあげながら、その完成度を高めていった。いま、RC211Vはその最終的な仕上げの段階に入っている
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