成田さん親子に聞く世界制覇までの30年

Part.2 世界を目指せ

フロンティア

日本人として初めて世界選手権にフル参戦した服部聖輝は、高校生3年生だった1976年に全日本選手権にデビューし、翌年にはエキスパート(その後の国際A級)に昇格。エキスパート2年目の78年には早くもランキング4位となり、若手No.1の注目株であった。二輪専門誌の編集部でアルバイトをしていた服部は、日常的に海外のレース情報に触れることができたため、その意識は早くから世界のトライアルに向いており、“とにかく世界選手権に出場したい”と考えるようになっていた。

当時、Hondaと契約していた服部は、ヨーロッパの現地法人のスタッフとして働きながら世界選手権に出場するという話をまとめて、79年に渡英。この年、Honda UKのメカニックという立場でイギリス選手権に出場。翌1980年に世界選手権に参戦し、最終戦チェコスロバキアで9位に入賞。これもまた日本人初の世界選手権ポイント獲得を果たし、その年の世界ランキング28位を得た。さらにSSDTでも総合16位を獲得(この、SSDTにおける日本人最高位の記録は30年を経た現在でも破られていない)。

服部は83年まで4年にわたり世界選手権に挑戦し、83年にも第4戦で10位入賞を果たしたが、「服部選手は11位とか13位とか、惜しいところでポイント獲得圏内に入れなかった。当時の世界選手権は10位までしかポイントが与えられなかったんですよ」と成田さんは言う。この年は発売されたばかりの市販モデル・Honda TLR200を250ccに拡大したマシンで参戦していた。

また、前年82年11月の全日本選手権最終戦・日本GPにも、発売を間近に控えたこのマシンのプトロタイプで出場。大会はワークスRS250Tに乗るHondaの山本昌也(この年、全日本チャンピオン獲得)が優勝し、服部は9点差の2位となった。さらに83年の日本GPにもTLR200改250で出場し、見事優勝。同大会で実質的なトップだったのは、ライセンスの都合で賞典外出場した18歳のイギリス選手権チャンピオン、スティーブ・サンダースであったが、その差はわずかに2点だった。

そして、服部は84年のSSDTにもTLR200で出場し総合19位・200ccクラス優勝を記録するなど、確かな成果を残したのである。市販モデルに乗った世界選手権帰りのライダーの大活躍は、日本のモーターサイクルスポーツ全体のトピックとして大きな話題となった。

その服部が全日本にデビューした76年、Honda UKはバイアルスTL250をベースに排気量を305ccに拡大したスペシャルマシン・TL300をイギリス選手権でデビューさせていた。この開発にはあのサミー・ミラーが携わっていたが、その後すぐに排気量306ccとした新設計のマシン・RTL306が日本で開発され、77年にはロブ・シェファードがこのマシンを駆って世界選手権におけるHondaの初優勝を記録した。

RTL306は世界選手権参戦に向けて本格的な開発が行われたワークスマシンで、79年途中からは排気量を拡大したRTL360(83年からRS360Tに呼称変更)となった。当初、TL200E(バイアルスTL125ベースの200ccエンジンを、イギリス製シーリーフレームに搭載)改250で世界選手権を戦っていた服部も、開発テストも兼ねて81年〜82年はこのマシンに乗って戦っている。

田中英生さんとRTL360(本田技術研究所にて)

ちなみに、これら一連の4ストロークマシンを開発したエンジニアのひとりである田中英生は、日本のトライアルの創成期を形づくった人物であり、弟の義耿とともに関トラを創設したメンバーのひとりだ。早くから手作りの改造マシンでトライアルに臨み、70年代初頭はHondaのCS90やヤマハDT-1の改造マシンで名を馳せ、72年にはMFJ関東トライアル選手権のシリーズチャンピオンに輝いた。またRTL306の開発後には、NR500の長円ピストンエンジンの設計にも携わっている。

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