鈴鹿8時間耐久ロードレース
特集

失敗から生まれる勝利。Part2 : 目的地への道程

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Part2 : 目的地への道程

No.1チーム4連敗の裏側

1987年 : ライダーの問題、戦略の問題

●ガードナーのペアライダーだったドミニク・サロンは、1985年にGP250でデビューしているが、元々はそのキャリアを耐久レースでスタートさせている。81年、83年、86年、そして87年のボルドール24時間で優勝しているように、24時間耐久を得意としていた。この、長距離マラソン型ともいえるサロンの走行スタイルと、1時間をフルにスプリントペースで走る8耐での走行スタイルには、大きな隔たりがあった。

●しかも、ガードナーに準拠したマシンセッティングに対し、サロンは同じペアで優勝した前年から違和感を覚えていた。Honda4連勝およびガードナー3連勝がかかったレースでありながら、両名の走行スピードの差は著しく、サロンは過大なプレッシャーを感じていた。

●「GPライダーの参入が増え始めたこの時期、Hondaの中で“スプリントで徹底すべきだ”“いや、あくまでも耐久レースだ”という議論があったが、この年の結果が“8耐はスプリントである”という認識を決定的なものにした」と、ノートの持ち主は言う。また、「いわば鈴鹿育ちで、8耐を自分の威信としていたガードナーにマッチする、適切なライダーがいなかったのも事実。そこで耐久スペシャリストをペアに起用するしかベストな選択肢がなかった」とも言う。

●翌年からガードナーのペアは、Honda歴代のGP500ライダーが務めることになったのをはじめ、GPライダー同士、耐久ライダー同士というように、同じフィールドを走るライダーがカップリングされることが基本になった。

ドミニク・サロン



1988年 : ピットワークの問題

●当時、エンジンオイルの補給は2時間に1回、つまりピットイン2回に対して1回の割合で行われていた。市販モデルと同じようにクランクケース側面・下側にある小さな点検窓を覗いて、エンジンオイルの残量を確認するものだったが、燃料補給、タイヤ交換、ライダー交替を10数秒で行うという慌ただしさの中で、正確な判断を下すことは難しい作業であったのも事実だ。

●この年は、その残量チェックに錯誤があった──予選トップを奪い、そのままトップを先行するライバルの存在に、チームスタッフはいつも以上の焦りを感じていたのかもしれない。タイムロスをさせたくないがために、実際にはエンジンオイルが不足気味であったのに、オイル量は十分だと判断されたマシンは無補給でコース復帰。その後、ガードナーの走行中にエンジントラブルを起こしリタイア。

●翌年に向け視認性を高めるため、点検窓のサイズを拡大。8耐の前戦にあたるルマン24時間で、その視認性の検証を行った。オイル補給も毎回、必要に応じて行う方式に変更された。

1989年 : 運の問題

●ガードナーの新たなペアライダーとして、ヤマハから移籍してきたミック・ドゥーハンを起用。ポールポジションからトップを独走するも、レース後半の126周目にドゥーハンがコーナーでラインをふさいだ周回遅れのマシンを避けたところ、他の周回遅れのマシンと接触し転倒、リタイア。

●トップチームの走行スピードが向上するにつれ、増加していく周回遅れの存在を織り込んだ戦略を意識。

1990年 : ライダーの問題、ハード面の問題

●この年、予選トップタイムを記録したのはドゥーハンであり、初めてガードナーがペアライダーの活躍に甘んじることになった。同郷の後輩であるドゥーハン優位で進む大会は、ガードナーに世代交代を意識させるには十分だった。しかも、この年はライバルのヤマハが悲願のNo.1チーム初優勝をかけて、現役GP500チャンピオンでガードナーのライバルであったエディ・ローソンを起用。

●これらの状況を背景に、それまでにないプレッシャーを感じていたガードナーは、デビューレースとなった81年の8耐以来、初めて決勝における転倒を喫する。幸いに損傷は軽度。マシンを修復したガードナーは、ライバルを1秒以上も上回るタイムで疾走。ゴールまでにはトップに復帰できる計算が成り立つ。が、しかしコース上でガス欠によりストップ。

●ガス欠は、転倒によって燃料タンク構造に変化が生じ、給油時に燃料のフルチャージが行えてなかったため。そこに、ラップタイム短縮による燃費悪化、さらにはリザーブコック未装備という、二重三重のハプニングとミスが重なった結果のリタイア。

●リザーブコック未装備は、数値計算が生んだ理論値に重きを置き“レースでリザーブコックを必要とするような、曖昧さがあっては勝てない”という思考がチームを支配し、常識的に考えてあるべき物を取り付けなかったことが原因。いわば理想論に囚われた視野狭窄が生んだ、前代未聞の失敗といってもいい。

●燃料レベル確認用窓の追加、リザーブコックと残量警告灯の装備、燃料タンク構造のさらなる改良など、複数の保証・セーフティシステムの確立を進めた。

  • 1990年 RVF750
  • エディ・ローソン(WGP参戦時)

“わたしの記録”には、こう記されている。

『前年にどうして負けたのか、その分析が非常に重要。28800秒(=8時間)の間に誤った作戦や、想定外の動きもある。そこに過去の経験や教訓を生かし、勝つ方向の作戦を検討する』

『大切なのは失敗の法則性を理解し、失敗の要因を知り、失敗が本当に致命的になる前に未然に防ぎ、防止する術を覚えること。これをマスターすることで、小さな失敗経験が新たな成長へと導く力となる』

一般的に“その年の8耐が終わった翌日から、次の年の8耐に向けての準備が始まる”といわれているが、その実態はどうなのか。前年の失敗や教訓をどう生かし、何を新たに体得していくのか──。

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