team HRC現場レポート

Vol.01

新しい乗組員による10年ぶりの船出

2018年シーズンを迎える全日本ロードレース選手権のビッグニュースの一つが、10年ぶりのTeam HRC復活。それが全日本ロードレース開幕戦、ツインリンクもてぎ大会で現実のものとなりました。10年ものブランクを考えると、ほぼゼロからのスタートといえる新チーム。全日本ロードレースと鈴鹿8耐に参戦予定のTeam HRCの活動を、レースごとにインサイドレポートとしてお伝えしていきます。

宇川徹

宇川徹(以下、宇川)「全く突然のことでした。え、僕がですか? って聞き直したくらいです」

全日本ロードレースへのTeam HRC復活―それは2017年の秋ごろから話が具体的になっていった。チームスタッフを募り、選抜するうち、それではチーム監督はだれにするか、という話になる。そこで白羽の矢が立ったのが、宇川徹である。

宇川「僕の実感では、正式にスタートを切ったのは17年の秋ごろだったと思います。監督に、と話をいただいたのが11月で、とても僕には務まらないと何度もお断りしたんですが、最終的に引き受けさせてもらいました」

宇川は幼少のころから、ずっとHondaでレースを戦ってきたライダーだ。ポケバイでレースキャリアをスタートしたのが10歳のころ、それから地元・関東から九州の名門「チーム高武」に越境入門して九州選手権にデビュー。19歳で国際A級ライセンス(当時)に昇格すると、20歳で全日本選手権GP250クラスのチャンピオンを獲得。1993~94年に同クラスを連覇すると、96年からは世界グランプリに参戦。鈴鹿8耐でも97年に初優勝を飾ると、2005年までに5勝を挙げ、これは現在でも破られていない、鈴鹿8耐の最多優勝記録だ。

宇川「もちろん、僕はずっとHRCにお世話になっていましたし、レースを始めたころから『HRC』という存在はずっとあこがれの存在でした。いつかHRCに認められるライダーになってやろうとがんばっていたし、HRCのライダーになってからは、それを誇りと感じてきました。当時の若いライダーは、みんなそうだったんじゃないでしょうか」

そのHRCが復活、しかもそこに監督として自分が収まるということは、宇川からしてみれば信じられないことだった。宇川は自らを「若いライダーの指導なんて柄じゃない」と評しており、それも監督就任のオファーを何度か断った理由なのだという。

それでも、HRC復活に関しては大きな期待を抱いていた。HRCは2002年を最後に全日本選手権を、そして2008年を最後に鈴鹿8耐のレース活動を休止し、以降はレースサポートとして、国内のトップチームにマシンやパーツを供給する立場に徹していた。

対して宇川は、プロライダーを退いてから2006年には本田技術研究所に入社し、2016年からはホンダ・レーシングに勤務。同年には鈴鹿8耐用のマシン開発にも携わり、事実上、再びレースの世界に戻ってきていたのだ。

宇川「ご存知のように、HRC、さらにHondaとして重要視している鈴鹿8耐で、2015年からライバルメーカーに3年連続で敗れています。僕がHRC所属になったのがちょうどその真っ最中で、全日本ロードレース選手権でも2011年を最後に、12年から16年まで5年連続でチャンピオンを取り逃がしている。これは、レース活動をHRCとしてやった方がいいんじゃないかとは思っていました。社内でも何度もその話が出ては消え、ようやく正式決定したのが17年の秋だったわけです。そこで監督就任の話をいただいたので、自分には務まらないとは思いながらも、引き受けることにしたんです」

2017年の12月には、Team HRCの復活が正式発表された。新生Team HRCのライダーは高橋巧。16年に宇川が鈴鹿8耐のマシン開発に携わっていたときには、一緒にマシンの開発やテストに走り回った仲だ。当然、高橋のことはよく知っているし、高橋とならば、新生Team HRCを作っていけると思ったと言う。

宇川「若手の指導とか後進の育成、なんて言いますが、巧は速いライダーだし、もうとっくに育てるなんて段階じゃありません。ただ所属が初めてHRCになったというだけで、ほぼ完成されているライダーです。17年のチャンピオンですしね。ただ、ライダーとしては闘志を内に秘めるタイプで、もうひと皮むけたらおもしろいだろうな、とは思っていました。僕が伝えられることなんてそう多くはありませんが、巧が力を発揮させやすいチームにしていきたい」

宇川は鈴鹿8耐で5回優勝し、世界グランプリには10年近く参戦。MotoGPでも2002年に日本人として初めて優勝を果たすなど、日本でも有数の経験を持つライダーである。ホンダ・レーシングとしては、その経験を高橋に注入したかったのだろう。かくして、2017年のJSB1000クラスチャンピオンと、日本のレーシングレジェンドの一人が力強いパートナーになったのである。

監督とエースライダーとしての2人の初仕事は、2018年1月下旬に行われたマレーシア・テストだった。新型ワークスマシン「CBR1000RRW」の開発テストだったが、ここへ向けてTeam HRCの陣容も固まっていった。レーシングチームの活動には、ライダーや監督だけではなくメカニックやヘルパーといったスタッフも必要だし、マシンやパーツはもちろん、機材や資材もそろえなければならない。

宇川「メカニックやサポートスタッフはもちろん、細かいことを言えば移動用のトラックはどうする、テストやレースで使うテントやテーブル、イスはどうする、ピット内の装飾ボードもチームウエアも必要だね、ってとにかく準備作業が膨大なんです。それが10年のブランクという意味だし、それが新チームを立ち上げるということ。ただ、それがホンダ・レーシングとしての人材育成につながるし、レース活動をする意味の一つですからね。もちろん、速いマシンを作って、速いライダーに乗せて勝つというのが最大の目標ですが、それだけではないということです。このシーズンオフは、その準備に走り回っていた感じですね」


開幕まであと2日。準備不足のシーズンイン

2018年の全日本ロードレース選手権に向けては、3月10~11日に行われた「鈴鹿サーキット モータースポーツファン感謝デー」でのTeam HRCお披露目を皮切りに、翌12日が国内初テストの予定だった。しかし、ここでアクシデントが発生してしまう。このイベントを前に、高橋がトレーニング中に負傷。左手指を骨折し、走行不可能になってしまったのだ。負傷の回復を待って、高橋は事前テストをキャンセル。ニューワークスマシン「CBR1000RRW」のシェイクダウンも済ませられない中で、Team HRCは開幕戦を迎えることになった。

宇川「ケガはしょうがないです。本音を言えば、レース前の準備やテストは、やってもやっても足りないし、それが成績に反映されるもの。ただ、巧はもうJSBクラスは長いですし、経験のあるライダーですから。心配ない、と言ったら嘘になりますが、今ある状況で準備を進めていくしかありません」

結局、高橋のマシン初乗りは開幕戦の事前合同走行、特別スポーツ走行まで延期されることになった。土曜、日曜にレース1と2が行なわれる開幕戦を控え、マシンへの初乗りは木曜日。新生Team HRCのスタッフ全員が顔合わせしたのも、この日が初めてだった。

この日、高橋は8番手タイムで走行を終えると、金曜の合同走行では7番手タイムをマーク。まだまだ新車の初乗り、シェイクダウンだが、結果は悪くない。

高橋巧(以下、高橋)「レースウイークで、初めて今年型のマシンに乗りました。自分のケガでチームに迷惑をかけてしまいました。走ってみて、左手のケガの状況も悪くはないので、ここから巻き返していかなきゃ、と思います。ただ、木曜からの走行は気温も路面温度も低く、風も強かったりしたので、十分テストできたとは言い難いです。まだマシンの評価や症状を把握している状態ではないので、まずはレース1、2と、きちんと走りきれるようにしたいです」

迎えた土曜日の公式予選。この日は雨となり、ウエットコンディションの中で行われた。高橋はレース1で6番グリッド、レース2では4番グリッドを獲得。左手に負傷を抱え、マシンテストをしながらのタイムアタックだったが、走行に負傷の影響が無さそうなのが収穫だった。

宇川「巧には予選が始まる前に、まず転倒しないように、きちんと最後まで走るように、と言ってあります。負傷がある中で、テスト不足、気温が低く雨も降っているというコンディションは、なかなかに悪条件で、多くを望めません。本来ならば言ってはならないことですが、開幕戦は様子見のレースになります。日曜にはレース2もありますし、巧がどんな走りを見せてくれるか。心配、不安、楽しみと、いろんな感情がありますね。レースの目標は常に優勝すること、表彰台に上がり続けることです。これは、ワークスチームとして、どのカテゴリーでもずっと変わらない目標ですが、この状況では、最後まで走りきってほしい、と言うしかない。普通に走りきれば、巧のパフォーマンスならば表彰台には上がれるでしょう」

迎えた土曜の決勝レース1。コンディションは変わらず、雨は止んだものの、ウエット路面での決勝レース。ここで高橋は、2列目6番グリッドから好スタートを決め、なんと1周目をトップで帰ってくる走りを見せる。ただし、マシンのテスト不足はいかんともしがたく、ドライ路面とウエット部分の混在する路面コンディションで、徐々にポジションを落とし、レースの大半を3番手ポジションで周回することになった。

それでも高橋は、通常ならペースの落ちるレース後半に、明らかに他ライダーよりもラップタイムの落ちが少ない走りを見せ、レース終盤に2番手を走行する清成龍一(MORIWAKI MOTUL RACING)を逆転。優勝した中須賀克行(ヤマハ)からは10秒近く遅れてしまったものの、2位でのフィニッシュを果たした。

高橋「路面がウエットから徐々に乾いていき、リスクも少なくなってきたので、終盤にペースを上げられました。中須賀さんに離されてしまっての2位ですが、最低限の仕事はできたと思います。タイヤも最後まで機能してくれたし、清成さんと勝負もできた。正直、本調子までもう少し時間が欲しいですが、1レース走りきれたのがいいテストになったというか、初めて今年用のマシンでロングランできました。これをレース2以降に活かしていきたいです」

レース2が行われた日曜は、気温が上がりきらなかったものの、ドライコンディションでのレースに。合同走行の木曜から、低い気温も高い気温も、雨の路面もドライ路面も走行したことになる。2列目4番手から決勝レースをスタートした高橋だったが、オープニングラップで他車に接触され、マフラーを破損。サイレンサー部分が脱落してピットインを強いられてしまう。

高橋「身体にもマシンにも他ライダーと当たった衝撃があって、急に音が大きくなったと思って足元を見たら、サイレンサーが外れちゃっていました。そのままピットインしてマシンを修復、新しいサイレンサーを装着して走りだしたんですが、その時点でもうトップから2周遅れ。もちろん、少しでも走行データが欲しかったので、再スタートしました」

再びコースインした高橋は、下位グループとは次元の違う速さを見せ、次々とポジションアップ。23周のレースを走りきって、見かけの順位では10番手あたりまでアップしてフィニッシュ。それでも、2周遅れが1周遅れとなっただけで、結果は最下位。しかし、きっちりと23周のレースを完走し、レース中のベストタイムは31人中4位だった。

宇川「レース2でのマフラー脱落は、だれも責められないレーシングアクシデントです。それでも巧のピットイン後に、だれもなにも言わず、再び走り出すための修復をしたのはよかった。1周目のアクシデントで2周遅れ、もうポイントも獲れない状況で、そのままリタイアしてもおかしくなかった。それでも、もっと走ってデータを貯めておきたい、ドライ路面でロングランをしたい、というチーム内の意思統一ができていた。チームがチームとしてきちんと機能していました。レース1の『最低限の仕事』は走りきって表彰台に乗ることでしたが、レース2の『最低限の仕事』は、ノーポイントでも最後まで走りきることでした」

出足のつまずき、やや遅れてTeam HRC開幕

準備不足が明らかなまま挑んだ開幕戦で、2レース走っての結果は2位表彰台とノーポイント。歓喜と落胆、不安と安堵の入り混じったウイークになったが、しかしチームは確実に前進することができていた。高橋はマシンの問題点を指摘できるほどにニューマシンを理解できたし、宇川は現状のチームになにが足りないか、高橋がどういうライダーなのかをより深く理解することができた。

宇川「木曜から日曜までコンディションが不安定だったこともあって、いろいろな同じ条件で長時間乗る、というテストはできなかったかもしれませんが、レース2でアクシデントに見舞われたとはいえ、レース1で表彰台に立って、マシンの改善点も見えてきた。すぐに第2戦の鈴鹿2&4がありますし、その前には鈴鹿テストもありますから、事実上、このもてぎで新チームが船出できた、ということでしょうね。出遅れ感は否めませんが、ここから速いスピードで仕上げていきます。それができるのがワークスチームなんです」

事実上、生まれたばかりの新生Team HRC。10年ぶりに復活したワークスチームは、宇川が目標にした「勝ちすぎて、憎たらしいくらい強いHRC」の復活に向けて、力強い第一歩を踏み出した。