HondaモータースポーツF1佐藤琢磨
佐藤琢磨 -中編-
「SRS-Fのことを知ってすぐに電話をしたんですが、もうその年の入校申し込みは締め切られていて、次の年まで待たなければいけないことが分かったんです。しかも、SRS-Fには年齢制限があって、その次の年が自分には最後のチャンスでした。でも、とにかく何かできることをしなければということで、レーシングカートを始めることにしたんです。それで雑誌で調べたところ、僕が寮生活を送っていた所沢にアルデックスというカートショップがあって、ここが規模といいカートへの取り組み方といい、僕の理想にぴったりだったので、自転車のトレーニングがてら、ぶらっと出かけてみることにしたんです」

 このときの琢磨は自転車競技用のウェア姿。そのままの格好で店内に入った彼は、雑誌ですでに見知っていた秋山オーナーと対面する。そこで「秋山さんですね」と声を掛けると、続けて「僕はF1ドライバーになりたいんですが、どんなふうにスタートを切ればいいのか分からないので、相談に乗って欲しくてやってきました」とまくしたてた。
 「それでも秋山さんは真剣な表情で僕の話に耳を傾けてくれて、本当に親身になって色々なことを教えてくれました。それでもう、ここでやるしかないと思ったんです」自分の情熱を真正面から受け止めてくれる秋山オーナーとの出会いは琢磨にとって非常に幸運なものだったが、ここにもうひとつの偶然が重なる。Hondaと縁の深いモータースポーツ・スペシャリストの無限(現在のM-TEC)で全日本F3選手権を統括する立場にあったエンジニアと、このショップを介して知り合うことになったのだ。

レーシングカートをはじめた頃の琢磨選手。
 「秋山さんがかつて無限ワークスのカートエンジン・チューナーだったこともあって、無限の方を紹介して頂けることになったのです。その方に、自分がSRS-Fに入校したいと思っていることを伝えると、『それだったら一度、鈴鹿に来たほうがいい』という話になり、その年のフォーミュラ・ニッポンの、たしか最終戦に出かけることが決まったのです」

 鈴鹿のあるホテルで会った無限のエンジニアはその翌日、鈴鹿サーキットランドのモータースポーツ課の課長を紹介すると約束するが、琢磨と別れる間際にひとつ質問したという。
 「『何か持ってきた?』って聞かれたんです。ただ会うだけでいいだろうと思っていた僕が『いいえ、何も持っていません』と答えると、『ダメじゃないか、履歴書くらい持ってこないと!』と叱られました。それで僕もハッと気づいて、すぐに文房具屋に飛び込んで履歴書を買うと、ホテルの部屋でひとつひとつ書き込んでいきました」

 自分を印象付けるために履歴書を持参するという手法は、大人だったら気づいて当然のことかもしれないが、まだ19歳の琢磨には及びもつかなかったようだ。けれども、後述するように履歴書だけで済まさなかったところが、いかにも琢磨らしい。
 「履歴書だけではしようがないような気がして、作文を書くことにしたんです。『これまで自分はこういう事情でレースには関われなかったが、こんなに真剣にレースを戦いたいと思っている』という気持ちを延々書き綴りました。書き終わったのは夜中の3時くらいでした。必死に書いたその作文を、翌日課長さんに会ったとき手渡したのです」


SRS-F入校記念撮影。後列中央が琢磨選手。
 翌日、課長との面会はわずかに数分だったが、琢磨の手渡した履歴書と作文は充分にその使命を果たすことになる。
 「その年のSRS-Fの入校手続きをして、説明会に参加しました。ところが、選考はすべて書類審査で行なうため、説明が終わったところで『今日はこれで終了します』と告げられたのです。これはSRS-Fに自分の将来を賭けていた僕には納得できないことでした。何しろ、これがSRS-Fに入る最後のチャンスでしたから。それに、僕がSRS-Fを志望した第3期は、第1期卒業生の山西康司選手が全日本F3選手権で大成功を収めた直後ということもあって、定員7名のところに、70名近くもの応募があったのです。だから、書類審査にすべてを託すわけにはいかなかった。そこで『せめて面接をさせて欲しい』とお願いをしたところ、この希望が叶って面接に臨むことになりました。そのとき、何と以前お会いした課長さんが面接官として対応してくださったのです」
 そこで琢磨が「お久し振りです」と呼びかけると、課長は「最近、自転車はどう?」と質問してきたという。つまり、琢磨のことを覚えていたのだ。「そこで、後は思いのたけをぶつけることにしたのです」
 琢磨の情熱が伝わればあとは何の心配も要らない。こうして念願かなってSRS-F入校の権利を獲得し、琢磨は夢の実現へとまた一歩近づいたのであった。

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