HondaモータースポーツF1ルーベンス・バリチェロ『自らを語る』
 

 ルーベンス・バリチェロのレースが空回りしている。すでに4レースを終えたが、第3戦オーストラリアで7位に入ったのが最高位。ドライバーズ選手権の得点はわずか2点で、チームメイトのジェンソン・バトンの13点と比べると、不調であることは否めない。バリチェロ自身に聞くと、「最初のバーレーンはブレーキ・トラブルだった。右後輪のブレーキが熱を持ちすぎて、クルマがまっすぐ走ってくれなくて、右に右に取られるんだ。新しいチームに来てまだ僕自身クルマに慣れていないこともあって、それがトラブルかそうじゃないのかも分からなかった。最初のレースではそんな状況だった」と語る。
 「第2戦のマレーシアは3速ギアが使えなく、ポイントさえ取れなかった。マレーシアでは結構戦闘力があったと思ったのだが、残念だった。そこから伸して行くのは大変で、レースの最後にはクルマも少しは良くなって、戦闘的な走りができてきたと思ったんだけどね。ピットインも1回の予定で上手く行きそうだったのに。非常に悲しいよ。チームは大変モチベーションが高く、様々なことが上手く回り始めたと思ったんだけどね。2レースで0点は辛いね」とも言う。
 今年、6年間を過ごしたフェラーリを離れてHondaに加入したことは、バリチェロにとれば再びレースに対するモチベーションを上げる意味で、非常に重要なことだった。彼は、Hondaに対して良い印象を持っている。レースに対する姿勢も、実際の活動も彼の考えに合ったもので、期待は最初から大きかった。
 「Hondaと仕事をすること、日本人と仕事をすることは楽しい。几帳面に仕事をする。もちろん、時にはおかしな人もいるけどね。僕は日本人が好きで、ラジオの日本語講座を聴いたこともある。日本語だって、チョットオカシイデスネ、モンダイナイ・・・とかHondaの技術者と喋ると、彼らの反応がおかしくてね」
 Hondaといえば、アイルトン・セナを思い出すが、バリチェロもセナを通してHondaに好意を寄せているのだろう。だが、いま一番やらなければならないことは、レースで好成績を挙げることだ。
 「ジェンソンは素晴らしいレースをしている。それはチームのやり方が間違っていないことを意味する。僕にトラブルが降りかかるのはなんとも不幸だが、克服しなければいけない」と、モチベーションは依然として高い。
 まだ、バリチェロの努力は報われていない。おそらく、何かが空回りしているのだろう。サンマリノ・グランプリの予選では、開幕3戦の不調が嘘のように素晴らしい走りを見せて、バトンに次いで3番目のグリッドを獲得した。「寝ていたバリチェロがやっと起きた」と、評価する者がいた。
 せっかく起きたバリチェロだが、レースでは1回目のピットストップで彼の燃料補給のノズルが故障、バトンのものを使ってガソリンを補給しなければならず、そこで7〜8秒を失った。その後はリア・タイヤのロックに悩まされ、結局10位に入るのがやっとだった。終盤にはクルマのバランスも良くなったが、ときすでに遅しだった。
 しかし、バリチェロのやる気はまだ失せていない。次は彼の得意なニュルブルクリンク。そこでバリチェロはいかなる走りを見せるか? 彼がグランプリ・ドライバーを目指してブラジルからヨーロッパへ渡ったときのような、新鮮な気持ちでレースを走ってもらいたい。
  というわけで、ここからは彼がヨーロッパへ渡ったときの話を聞いてみよう。

 

―― さて、あなたが嫌いな昔の話をしましょう。89年にブラジルでフォーミュラ・フォードを戦い圧倒的な強さを見せ、90年にヨーロッパへ渡ります。その時の話を聞かせてください。
ルーベンス・バリチェロ(以下RB): 本当に昔の話をするの? 仕方がないなあ。90年にはヨーロッパでGMロータス・ユーロシリーズへ参戦した。ヨーロッパでの活動資金は、ARISCOというブラジルの大手スーパーマーケットが出してくれた。彼らは僕がF1グランプリに上がるまで支援を約束してくれたんだ。チームはDraco Racingという経験の豊富なチームで、1年目にチャンピオン・タイトルを獲得することができた。その時、レースで一緒に戦っていたのが、いまホンダ・レーシングF1・チームのスポーティング・ディレクターを努めるジル・ド・フェランと、イタリア人のヴィンセンツォ・ソスピリだった。

―― 不思議な縁ですね。
RB: 当時は、今もだけど、ブラジルで速いドライバーはみんなヨーロッパへ来たんだ。ブラジル人は本当に何人もいた。アイルトン・セナの影響は大きかったね。それにしても、ジルは昔から良いやつで、よく一緒に行動したよ。サーキットではライバルだったけど、クルマを降りると友人だったから。シルバーストンの田舎に住んで、本当にくる日もくる日もレースとクルマの話をしていたんだ。

―― そして次の年はもうF3にステップアップをしたわけですね。
RB: そう、あまり時間がなかった。

―― あなたは1972年生まれですから、まだ当時は19歳じゃないですか。
RB: 時間がないというのは歳の話ばかりではなく、お金の話もある。いくらARISCOが支援してくれていると言っても、何年も足踏みしているわけにはいかない。僕も、彼らに早くF1グランプリで走る姿を見てもらいたいし、できればなるべく早く自分の才能でお金を得たかったんだ。だから、イギリスに来て何年ものんびりしているわけにはいかなかった。それに、タイトルを取った同じシリーズを2年もやる必要性がないし。

―― その通りですね。そこでF3へ上がった。いかがでしたか。
RB: West Surrey Racingという名門チームに入ることができた。このチームはディック・ベネットというオーナーのチームで、彼はアイルトンを走らせてチャンピオンに仕立て上げた優秀な人物だった。僕はアイルトンと同じチームで走ることができて、夢のような気持ちだった。ライバルはデイビッド・クルサード。でも、ここでも1年目にチャンピオンに輝いた。

―― とんとん拍子ですね。
RB: ここまではね。

―― セナはF3でタイトルを取ってすぐにF1に行ったのですが、あなたにはその年の末にF1チームから誘いは来なかったのですか。
RB: 来たよ。来たけれど、まだ早いと思って断った。F3を1年やっただけですぐにF1というのは、ちょっと自信がなかった。F1に行く前にもう少しレースをしておかなければ、と思ったんだ。アイルトンからF1の凄さは聞いていたからね。

―― 時間がないから早くステップアップしたいけど、もう少し経験も積みたい、いろいろと考えることがあるんですね。
RB: F1に早く乗りたい気持ちはあるけれど、一度乗って失敗するともう先はない。だから、F1にはそれだけの力をつけてから乗りたかった。それに、ここまで来たらもうF1は目の前だから、ここで焦る必要はないと思ったんだ。それで、F3000レースを選んだ。イル・バローネ・ランパンティというチームで、F3000レースを戦ったんだ。しかし、簡単だとは思わなかったけれど、残念ながら1勝もできなかった。結局選手権は3位。悔しかったね。でも、F3000に乗って、これならもうF1に行っても大丈夫だという自身はついた。そこで、その年の末にジョーダン・グランプリと契約した。まだ新しいチームだったけれど、オーナーのエディ・ジョーダンはやる気のある人物で、僕のスポンサーのARISCOも喜んで支援してくれたんだ。

―― いよいよ夢にまで見たグランプリ・ドライバーになれたわけですね。セナのようにやれる自信はありましたか。
RB: アイルトンはその時すでに何度もチャンピオン・タイトルを取っていた。だから、彼のようにやれるとは思わなかったけれど、彼のようにやれたらいいなあとは思った。彼の胸を借りるつもりで頑張ろうと思ったんだ。

―― 良かったですね。では、ここからの話はまた次回ということで。ここからはF1の話だから、いろいろ話してもらえそうですね。
RB: いや、もう昔の話だからね。次回は、今現在の話がいい。

―― まあ、そう言わず。次回を楽しみにしています。(続く)
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