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自転車乗り始め、中学1年生の頃。友人と二人で三浦三崎の知人宅まで行ってしまった。
 琢磨の小さな冒険旅行は、小学校の終業のベルと同時に始まるのが常だった。「学校が終わると、とにかく遠くに向かって自転車を走らせました。ひとりで行くこともありましたけど、だいたいは友だちと一緒に出かけていましたね。それで、どんどんどんどんペダルを漕いで探検するんです。迷子になっても構わないから、とにかく遠くに行く。そうして見知らぬ街角に辿り着くと、一緒に行った友だちは『もうヤバイから帰ろうよ』とか『いま来た道で帰ろうよ』とか言い出すわけです。でも、僕は同じ道で帰るのが絶対に嫌だったから(笑)、変な道を選んで、わざと迷子になっちゃう。そこから、自分の勘というか本能を頼りに自分の家まで帰るのが楽しみだったんです。でも、時には自分でもいよいよヤバイと思う時がありましたね。そんな時には胸がドキドキしてきちゃうんですけど、それでも、なぜか絶対に帰れるっていう自信があったんです。そうやって、自分の感覚だけで道を選びながら走っていくと、ひょんなところから、自分の知っている道に出くわしたりする。その瞬間がすっごく嬉しくて、そこから一目散に家に帰って『ああ楽しかった』と胸を撫で下ろす。そうやって一日が終わっていました」

 自転車を走らせる楽しみは、琢磨が小学校の高学年を迎えると「冒険」から「スピードの探求」へと次第に姿を変えていった。
 「その頃になると、自転車に乗る技術(笑)もかなり上達していたから、今度はコンマ1秒でも速く走ることに関心が移っていったんです。自転車でも“かけっこ”でも、僕はとにかく負けず嫌いだったので、何でもとことんやるんですよ。僕たちが“警ドロ”って呼んでいた、警察とドロボウに扮してする“追いかけっこ”にしても、絶対に負けるのが嫌で徹底的にやってましたからね。まあ、そういうわけで自転車でレースをするようになってからも、とことんやってましたよ。もちろん、負け知らずでしたけどね」

 中学に入ると団地の一画をサーキットに見立ててのレースを行なうようになった。そして、その日その日でコースを決め、腕時計のストップウォッチでタイムを計る“タイムトライアル”に興じたという。
 「団地のなかを走る道とか、敷地のなかの公園とかを組み合わせてミニサーキットを作るんです。1周で40秒とか50秒くらい、時には1分くらいの長いコースを作ったこともありましたね。そこを、当時流行り始めたマウンテンバイクで疾走するんです。といっても、まだ中学生だから競技用の本格的なヤツじゃないんだけれど、とりあえずマウンテンバイクの格好をしているスポーツ車ですよ。でも、今になって考えてみれば、団地って結構危ないところですよね。コーナーはブラインドばかりだし、場所によっては自動車が入ってくるところもありましたから。まあ、当時の僕らはそんなことおかまいなしで、タイアをバリバリいわせながら、自転車を思いっきり倒してコーナーを駆け抜けていました」
 懸命にペダルを漕ぐ琢磨はいつも優勝。ただし、あまり勝ち過ぎると友達は離れていく。「だから、友だちはマウンテンバイクでもスリックタイヤに交換してOKってことにするんです。僕はブロックタイヤのままで。それで勝負すると、1秒以下の僅差になったりすることもありましたね」

初参戦したシマノ鈴鹿ロードレース
 高校に入学すると、地元のプロショップ「たかだフレンド」を通じて本格的な自転車競技の世界を知ることになるが、そこでの琢磨も、どこかでクルマの影響を受けていたように思える。きっと、その数年前に鈴鹿で体験した、F1日本GPの衝撃が忘れられなかったからなのだろう。
 「高校に入ってから、自宅の近所に“たかだフレンド”というスポーツ自転車店を発見して、そこで初めて本格的な競技車のマウンテンバイクを手に入れたんです。それが、それまで乗っていた自転車とはまるで別物でした。とにかくフレームの剛性感が全然違ったし、変速機も指先の操作ひとつで、F1のセミATみたいに“カチッ、カチッ”って決まるんです。もう、それが嬉しくて嬉しくてね。でも、乗っているうちに調整が狂ってきて、変速のスムーズさというか素早さが段々失われてくるんです。そうなると面白くなくて、自分で納得がいくまで何回でも調整してました。ばらしては組み立て、ばらしては組み立てての繰り返し。ワイヤなんか必要がないのにしょっちゅう取り替えたり、グリースアップしたり。そこまでのメンテナンスはタイムに関係する領域ではなかったけれど、完璧じゃないことが自分としては許せなかったんです。おそらく『きっちり調整されたものでなければ、全開走行は許されない』っていう思いが、自分のなかにあったんでしょうね」
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