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丸野エンジニアの手記
ロータスとホンダ

 0.3秒差で、ポールポジションはBRMのグラハム・ヒルに取られたが、パワーにものをいわせて直線でタイムをかせいだ我々のギンサーは、ロータスのジム・クラークと同タイムの2位で、オランダGPの最前列に並んだ。

 そのスタート前の事だった。
 ロータスのオーナーで、イギリスのスポーツマン貴族を絵に書いたようにスマートなコーリン・チャップマンが腕組みをして、ズングリした我々のF1を、ためつすがめつ眺めていた。
 いかにも、「ロータスとは、サラブレッドと道産子ほども違う、こんな車で良くあんなタイムが出せるもんだ」とでもいいたげだった。
 彼は一時期、ホンダエンジンを使いたいと言ったこともあつて、私はエンジンの外形図を描いて送ったこともあったが、最近はほとんど関心を示さなくなっていた。

 結局レースはロータスのクラークがまた優勝、ギンサーは6位におわった。
 クラークはモナコGPと同じ日に行われたアメリカのインディ500に出場し、各周回ごとのトップに賞金が懸かった 200周のレースの 190周をトップで走って優勝した。
 そこで20万ドルを稼いだクラークは、モナコのF1には出走しなかった。
 そのモナコGPを除いて、出場したF1レースは全部優勝した。これで5連勝。
 そして、1965年度チャンピオンにもなったロータスは、ヨーロッパのレース場で貴族のような存在だった。

 このレースを最後に帰国した私は、それからずっとヨーロッパを訪れる機会はなかったが、1989年に6年間のアメリカ駐在を終えて帰国した後、
「我々の新しい技術を見にきて欲しい」
というヨーロッパの会社に招かれて、イタリヤ、スイス、オーストリヤ、ドイツ、フランス、オランダ、イギリスと再びヨーロッパの旅を重ねることになった。
 新しい技術を開発しているイギリスの会社で、
「われわれの技術を是非ホンダで使ってほしい。ヨーロッパやアメリカの会社で使ってもらっても、ハクは付かない。日本のメーカーに使われてこそ世界に認められる」
と、F1で来た24年前には、畏敬と羨望の眼差で眺めていた誇り高いヨーロッパの技術者にいわれて、ほっぺたをつねってみたくなつた。

 そんな折、アメリカでユダヤ人に言われた強烈な言葉を思い出した。
 日本の技術や経済力がようやくアメリカでも少し認められ始めた1983年。ロスアンジェルスに赴任して、娘のインターミディエート・スクール(中学校)のPTAに初めて出席した時のことだった。
 コーヒーとクッキーが置いてあるテーブルの向うに座っていた痩身の紳士に、
「あなたは日本人ですか」
と、問われた。
「そうです」
と、答えると、
「日本はたいしたもんだ、世界をコンカー(征服)しましたねぇ」
と、辺り構わず、あっさり完了形でいわれた。
「いや、そんなことはありませんよ。ところで、あなたはどこからいらっしゃったのですか?」
と、聞くと、
「イスラエルから来ました」
という返事が返ってきた。
 それ以上話を続けられなかったのは、まだ、英語会話能力が回復していなかったからだけではない。ユダヤ系の、音楽家達の素晴らしい感性、アインシュタインなど科学者のトテツもない頭脳、ロスチャイルド達の世界中に張り巡らされた金融網と情報網などが頭の中を駆け巡って、「日本は世界をコンカーした」という言葉の出所を探していたのだ。
 確かに二輪のように世界の市場を、日本のメーカーが支配している分野はある。
 しかし1980年に、景気の悪いアメリカを抜いて日本が自動車生産世界一になっても、別に世界を征服したなどとは思っていなかったからだ。

 あのザンドフルトのレースから27年後の1992年に、ロータス社にも招かれた。
 ロンドンの北東200km。見渡す限り広がる麦畑の中に、GM資本の下で、少量のスポーツカーを生産している工場があった。
 その隣で新しい技術の開発をやっている研究所をつぶさに見せてもらった。
 応接間に通されて、ふと見上げた壁に、今は写真になって、額縁の中からにこやかに微笑みかけているコーリン・チャップマンを見つけた。
 大変なつかしくなって、ロータスの人達に、
「1965年にF1レースで私が会ったチャップマンはキングで、クラークはプリンスといわれていました」 と、いったとき、私の脳裏をよぎったのは、この27年間にロータスとホンダが辿った道の違い、チャップマンと本田宗一郎+藤沢武夫の違いだった。

 オランダGPの後、帰国した私が研究所に出社してみると、来年から新しく始まる3リッターF1の、トランスミッションのレイアウト作業が待ち受けていた。
 トランスミッションのレイアウトが終わるやいなや、入社三年目の入交昭一郎君がレイアウトしていた縦置き3リッターV型12気筒F1エンジンの、シリンダーヘッドの図面を描いた。
 それから自分のトランスミッション・ケースの図面を描きおわると、10月に開発を公表した軽自動車N360の、新村さんを中心にした開発グループが待っている、といった忙しさだった。

 その頃の小さなホンダの主な収入源はバイクだった。
 自動車は600ccのスポーツカーS600と、スポーツカーと同じ構造の、360cc4気筒ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト・エンジンを積んだ『軽トラック』等を少し売っていた。
 一方、 50cc、125cc、250cc、350ccの2輪のGPレースをヨーロッパで一年中戦い、F2のエンジンをブラバムに提供し、F1のエンジンと車体を開発してヨーロッパを転戦していた。
 本田社長の率いる研究所の七割は、金にならないどころか金を食うレース関係の仕事で占められていたのだ。
 会社としては、金の稼げる量販車がどうしても必要だったのだが、我々研究所のエンジニアにとっては、量販車の開発よりもレーサーの仕事の方が面白い。
 レースは負けたら出る意味がない。開催日が決まっているので時間的にも後へはずらせない。だから、どうしてもレーサーの仕事を先にやってしまうことになる。

 そこで、業を煮やした本社の藤沢副社長から研究所に強烈な要請があった。研究所の開発機種に、ホンダで初めて優先順位が付けられたのだ。
 その頃の手帳を見ると、N360を1位に量産機種が続き、F2が4位、2輪レーサーが5位、3リッターF1は6位だ。
 本田社長が陣頭指揮を取る研究所に対して、「金を稼ぐN360を第一優先で開発してくれ」という、経理を預かる藤沢副社長の悲鳴とも聞こえるような訴えだった。
 軽自動車のN360が、ホンダを2輪メーカーから4輪メーカーへ転進させたことを顧みると、「ホンダ」とその技術が世界中に認知され始めた、このタイミングを見据えた藤沢氏の決断は、大きなターニングポイントだった。

 レースと技術に突っ走る本田宗一郎一人だったら、チャップマンのロータスと同様、フェラーリのようなスポーツカーメーカーの道を歩んだかもしれない。
 しかし、ここでホンダが選んだのは、レースで磨いた技術と鍛えた人間を乗用車の開発に投入して、より多くの人々に喜んでもらう車を造るメーカーへの道だった。
 苦言を呈する藤沢武夫を退けず、むしろ、自分を客観的に見る鏡として、最後までペアを組み通した本田宗一郎は、やはり偉かったというべきだろう。
 そして、こういう日本人を見抜くユダヤ民族も鋭いというべきだろうか。