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丸野エンジニアの手記
優勝は早い車か、速い車か

 キングス・アームズに泊まった翌朝、道が空いてたせいか、シルバー・ストーンに着くのが早すぎたようだ。プラクティスが始まるまでには、まだ時間がある。
 第二次大戦中は飛行場だった平らなコースを、フォードのエスコートと、その車長が2/3ぐらいしかないミニクーパーが抜きつ抜かれつ走っている。
 大きさの違う車の何かおかしなレースだと思ったが、排気量はどちらも1200ccクラスなのだ。
 エスコートはフロント・エンジン、リヤ・ドライブ。ミニはフロント・エンジン、フロント・ドライブ。カーブでは短いミニの方が速いが、直線はエスコートの方が速いようだ。
 特性のまったく違う車のレースは、最後まで結果の予測がつかない。

 こんなクラブレースを漫然と眺めているうちに、また変な事を思い出した。
 モナコのレギュレーション・ブックを訳していた時、
「チェッカードフラッグを振られて最初にゴールし、優勝したF1は、本当にそのレースで一番速かった車か?」
ということが気になっていたのだ。
 F1はレースで「速さ」を競うものだとばかり思っていたからだ。

 F1のレースは、1本のスタートラインに並んでスタートするのではない。そもそもスタート・ラインはない。
 あるのは多数のスターティング・グリッドと、1本のゴール・ラインだけだ。
 プラクティス(練習走行)でコースを走ったラップタイムが良かった順に、フロントローからセカンドロー、サードローと2台または3台づつ、決められたスターティング・グリッドに並べられる。(最近はこの“ロー”も真横ではなく、斜めになった)。
 そして、開催国の国旗が振り下ろされる瞬間に(今は、シグナルに変わったが)、このスターティング・グリッドから……従って、それぞれの車が前後に異なった位置から……同時にスタートする。
 と言うことは、例えばスターティング・グリッドが15番目のB車は、ポールポジションのA車より 60mも後方から、A車と同時にスタートするのだ。
 もし、この15番グリッドのB車が最終ラップまでに、その差を55m詰めて、ポールポジションのA車が最初にゴールラインを通過した次に、5m遅れてフィニッシュしたとする。
 この場合、レースでの実際の車速は、15番グリッドのB車の方が、55m差を詰めた分だけA車より「速かった」のは明らかだ。
 なのに、A車の方が、「早かった」(ゴールラインに「早く」到着した)として1位優勝。15番グリッドのB車が2位とされるのである。
 F1レースの順位は必ずしも「レースで平均車速が速かった順」ではない。

 速さを競うレースで、最も純粋な典型はオリンピックの100m競走だろう。
 横一直線のスタートラインに、一列に並んだ走者が、等しく100m走って、横一直線のゴールラインに到達するまでの、「時間の短さ」で、「走る速さ」を判定する競技だからだ。
 しかし、厳密に考えてみると、そんなに単純ではないようだ。車と違って人間の体はスタートの時とゴールする時では、形も姿勢も違うからだ。
 人体を含めて物体の移動速度を正確に調べるには、外観の変化に惑わされずに、物体の重心に着目して、その移動を調べるべきである。
 そういう観点から100m競走を見てみると、スタートでは大きな問題はなさそうだ。スタート・ラインに並んだ選手たちは、ツンノメルぎりぎりまで体を前方にせりだそうとするが、スタート・ラインより前には手も足もついてはいけない。ということは、全員、自分の重心をスタート・ラインぎりぎりに近付けて、一直線に並べているからだ。
 問題はゴールだ。頭を突っ込んでなだれ込む。胸を張り出して駆け抜ける。手を差し出して滑り込む選手はいないようだ。何で判定するのだろうか。
 競馬と違ってハナの差で勝つというわけにはいかないようだ。

 日本に帰ってからも、この疑問は収まらなかった。図書館に行って陸上競技規則書(1965年)を調べてみた。
 選手の「胴体」(頭部、腕、手、脚、足を含まない、くびを含む、いわゆるトルソー)がゴール・ラインに到達した瞬間がゴールなのだと書いてあった。
 競馬馬は、ハナの先まで存在価値が認められているのに、100mの選手は、いくら足掻いても、「胴体」以外、ゴールの価値はないのだ。

 この原稿を書くにあたって、念の為に最近の規則書を調べて、また驚かされた。
 2000年版の「註」には
「胴体(トルソー)とは頭、“頚”、腕、手、脚、足を含まない部分をいう。トルソーと頚の境界は、胸骨上部の凹んだ部分と第7頚椎の突起部を結んだ線とし、腕との境界は肩胛骨の外端とする」
“頚(クビ)”も、胴体から切り捨てられてしまったのだ。

 「モジリァーニの描く女性は頚が異常に長い。あれは誇張したデフォルメだ」と、思っていたのだが、ホテル・キングス・アームズの愛想の良いフロント嬢は、モジリァーニの油絵から起き上がって、ドレスを着たような頚の長い女姓だった。
 その後、頭が胴体にめり込んで怒り肩のイタリヤ人男姓や、セーターが滑り落ちそうな撫肩で頚の長いフランス人の男に出会ったりした。
 やっぱり、クビの短い選手から異議が出て、トルソーを定義し直したのだろう。
 しかも、皮膚に隠れた肉や脂肪の厚さでごまかされないように、キッチリ骨の位置で明確に規定されている。

 規定が厳格になったのはいいが、審判はどうするのだろうか。
 写真判定といっても普通の写真では骨までは見えないから、レントゲン写真を撮るのだろうか。
 レントゲン写真で見ていると、保健体育の教室にある標本のような白い骨格が、腕を、いや、尺骨を振りかざし、脛骨を跳ね上げ、顎骨を落とさないように食いしばりながら頭骸骨を突き出して、ゴールになだれ込んで来るのが見えるのだろうか。
 そして、A選手の第七頚椎と、B選手の肩胛骨と、どちらが先にゴール・ラインに到着したかを、カラー写真のゼッケン番号と見比べながら判定しているのだろうか。
 しかし、100mを10秒ぐらいで疾走して来る選手に、「イキヲスッテ、ハカズニトメテ!」などといって、「バシャッ」と遅いシャッターを切るわけにはいかない。少なくとも、その 100倍ぐらい速いシャッターを切らなければブレてしまう。
 しかも、コースを挟んで遠い所から撮るのだから、X線の強さは病院で我々がお世話になるレントゲン撮影装置の1000倍以上強力なものになるかもしれない。
 やっぱりレースの判定というのは難しいものだ。

 カリフォルニアのデザートで、毎年秋になると大勢のバイクが参加する長距離クロスカントリーレースが催されていた。
 スタート地点であるバストーの広大な荒野には、夜が明けきれないうちから、ぞくぞくとバイクが集まって来る。朝食を済ませて荷物を友だちに託したライダー達はスタートラインに並び始める。その数は大変なもので横一直線のスタートラインは、どんどん延長され、1マイルを超すこともあった。
 広々とした大地があり、平等を旨とするアメリカならではのレースではある。

 何千人もの走者が参加する都市でのマラソン大会では、スタートラインを1マイルもとることは不可能だから、シード選手以外は後方に100m以上もごちゃごちゃに並んでスタートしても仕方がないかもしれない。
 しかし、高度な理屈を捏ね繰り回して1mmの狂いもなく造られたF1は、もう少し理論的にも正確な判定ができるレースをやれないものだろうか。
 例えば、プラクティスのタイム差を、スターティンググリッドの前後位置に正確に置き換えれば、プラクティスの1周分をレースの前に付け足した事になるのだが、0.05秒差に車が何台もいると、横に並びきれなくなるだろう。
 または、ゴールラインは一本だけではなく、それぞれの車がスタートするグリッドの前の線を延長して、それぞれの車のゴールラインにする。自分のゴールラインに到達した時がゴールとすれば、全車が同じ距離を走ることになる。
 しかし、レース中は、どの車が何位なのか、観客にはさっぱり分からない。
 すると、誰もレースを見に来なくなるだろうか。

 モナコレースのレギュレーションブックを翻訳し終わった時から、何か良い方法はないものかと考えているうちに、35年が過ぎてしまった。
 陸上競技連盟も同じように悩んでおられるのだろうか。